【先行公開】集英社新書『はじめての公共訴訟』序文「はじめに」
司法を通じて社会課題の解決を目指す「公共訴訟」。その全貌を一般向けにわかりやすく解説した初の書籍、『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』(井桁大介・亀石倫子・谷口太規・丸山央里絵 著/集英社新書)が、2026年5月15日(金)に刊行されます。
そこで、刊行を記念して、冒頭の「はじめに」を先行公開いたします。
はじめに ——谷口太規(もとき)
よく晴れた秋の日。仕事場であるオフィスに向かう途中に、芝生の公園がある。まだ朝早いためか人はまばらだ。犬を散歩させる人や、ベンチに座ってコーヒーを飲む人。私は空を見上げる。ビルに囲まれているが、ぽっかりと空いた公園の上には、青く透き通った空が広がっている。深呼吸して、肺に流れ込む空気は清涼だ。咲き始めたばかりの金木犀(きんもくせい)の甘い香りが、その清涼な空気に甘いアクセントを添えている。
東京というとその過剰な人口密度であったり、絶えず続く開発の影響から、大気汚染のイメージを強く持っている人は多いだろう。しかし、実は今、東京の空気は記録のある過去50年の中でも最も綺麗(きれい)な状況にある。大気汚染のもとと言われる大気中の二酸化硫黄(いおう)(SO2)、二酸化窒素(NO2)、微小粒子状物質(PM2・5)等のすべての物質は、右肩下がりを続け、現在では基準値を大きく下回っている。私がこの空気を清浄だと感じるのはあながち勘違いではないのだ。
しかし1960年初頭の東京の遠景を捉えた写真には、建物群の輪郭が霞むほどに、工場地帯からの排煙や自動車の排ガスに覆われた様子が写っている。当時日本は、戦後の復興から高度経済成長期への移行期にあり、発展の陰で急速な大気汚染が進行していた。それから今に至る70年弱のうちに何があったのか。汚染された空気がそのまま東京の空を吞のみ込んでしまわなかったのはなぜか。
その転換点には訴訟があった。まず東京に隣接した川崎でそれは始まった。1982年、気管支喘ぜん息等によって苦しんでいた患者たちが、大気中の汚染物質の排出の差し止めや損害賠償などを求めて、国や首都高速道路公団、汚染物質を排出していた企業等を相手に訴訟を起こした。何年かをかけて同種の訴訟が次々と起こされ、最終的には400人を超える人が原告となる大規模なものとなった。東京でも、1996年に、同じく大気汚染による健康被害を訴え、国、首都高速道路公団に加えて自動車メーカーなどを相手にした訴訟が起こされ、最終的には600人を超える人たちが原告となった。
川崎公害訴訟は、提訴から全面的な解決までに実に17 年間、東京大気汚染公害訴訟は11年間を要している。ただでさえ喘息などの身体症状に苦しんでいた患者やその家族たちは、病苦に加えて、訴訟に多大な労力を費やすことになった。その負担の大きさゆえに壊れた家庭もあったであろう。被告となった国や企業は「公害は終わった」とのメッセージを発するネガティブキャンペーンを張り、汚染物質と原告たちの症状との因果関係を争った。それゆえ金目的だといわれなき中傷を受けた原告たちも少なくなかっただろう。それでも、人々はたたかい続けた。
結果、これらの訴訟は、公害防止のための各種施策の実施等や損害賠償を含む画期的な和解の成立をもたらすことになった。しかし、社会に与えたインパクトは、この和解の結果に基づくものだけでなかった。訴訟が提起され、進められる中で、訴訟が一種のメディアとしての機能を果たした。公害の悲惨さが広く知られ、社会全体にこの問題を解消しなければならないという意識が共有されていくことになった。こうした世論は、国や自治体、化学会社や自動車メーカー、道路公団等の各種ステークホルダーの態度に強く変化を促すことになった。環境基準がより厳密になり、工場や自動車の煤煙規制等の実施がされ、またこうした基準や規制に適合させる形での技術開発の進行なども急速に進むことになった。
始まりは、喘息に苦しむ人々の、自らの置かれた状況からなんとか抜け出そうとする必死のもがき、あるいは抵抗だったかもしれない。訴訟の形式自体も、原告たちの「私(わたくし)」に対する権利侵害を理由とするものであった。しかし、その与えるインパクトは個人生活の改善にとどまらず、そのはるか先へ、公共政策の変化や、社会の発展の方向性の転換へとつながっていった。今、この青い空を、清涼な空気を、東京に住む約1400万人の人たちが享受している。自動車メーカーはいかに環境負荷が少ない車をつくるかで、そのブランドを競い合っている。そう、その私(わたくし)のためのたたかいは、大きな公共的意義を持つことになったのだ。
訴訟の中には、このように公共的な意義を持つものがある。最近ではこうした訴訟を「公共訴訟」と呼ぶことが多くなってきている。そして、公害訴訟の時代にそうであったように、今、再び社会における「おかしい」や「不公正」を変えるための強力な手段として、脚光を浴びている。本書は、この公共訴訟について、より人々に身近なものとするために、その具体例、意義、歴史、課題、そしてその未来と可能性などをさまざまな角度から見ていこうとするものである。
以下、本書の構成を簡単に記しておこう。まず公共訴訟のイメージをつかんでもらうために、第1章では二つの実際の公共訴訟をとりあげて、その背景や、訴訟の中身や、経緯、そこに関わる当事者の声などを見ていく。
最初の具体例は、今、最も注目されている公共訴訟と言ってもよい、同性婚制度が認められていないことが憲法違反であるとして起こされた「結婚の自由をすべての人に」訴訟だ。この訴訟に携わる当事者や弁護士たちへのインタビューを交えながら、ルポルタージュ形式で紹介する。次に、もう一つの具体例として、犯罪の成否を争うという刑事事件の形をとって行われた公共訴訟である「タトゥー裁判」をその主任弁護人であった亀石倫子(みちこ)弁護士自身が振り返る形でとりあげる。
第2章では、こうした公共訴訟が社会にとってどのような意義を持つかを整理している。ここでは、公共訴訟が、一部の当事者の権利実現ということを超えた多様な意義や機能を持っていることが網羅的に分析されることになる。
公共訴訟は、長い歴史を持つ。この歴史を含めてそれをマクロ的に概観しようとするのが第3章である。公共訴訟全体の歴史について触れられた文献はこれまでにほとんどなかった。著者の視点による概説にはなってしまうが、読者が大きな流れをつかんだ上で現状を見られることを企図した。第4章では、法律雑誌などから抽出したデータに基づき、数値として公共訴訟の現状を把握しようと試みている。
日本の公共訴訟は、課題も多い。世界には日本よりも公共訴訟が活発な国々が多くある。日本の公共訴訟の課題がどこにあるのか、なぜそれが生じているのか、それを具体的なケースを例に分析したのが第5章である。
第6章では、公共訴訟をめぐる昨今の大きな変化や動きが示される。前章で書かれた課題が、そうした変化や新たなアクターの出現によってどのように乗り越えられようとしているのかが紹介される。
これを受けた最終章、第7章では公共訴訟の未来像を提示する。「レイシャルプロファイリング」訴訟を例に公共訴訟が新たなステージに入りつつあることが分析され、さらにこれからあり得る変革の可能性が示される。
読み終えた読者の方々が、より鮮明に公共訴訟というものを理解し、また公共訴訟をより身近なものと感じられるようになることを目指してこの本は書かれた。より近くに感じる人が増えれば、支援・参画する人も増えるだろう。この社会を変える手段の広まりによって、それを使って声をあげてみようとする人も増えていくだろう。よりマシな社会の実現をあきらめない人たちの存在こそが、私たちの希望だ。この本がそのような人たちのために少しでも役立つことができれば、これ以上嬉しいことはない。
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721410-9
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第1章 声をあげる人々、その物語 ──公共訴訟を知る
第2章 公共訴訟は社会をどう変えるか
第3章 公共訴訟の誕生と歴史
第4章 データで見る公共訴訟
第5章 なぜ数が少なく、勝ちにくいのか ──公共訴訟の抱えるハードル
第6章 新たな動きが生み出す、新しい連帯
第7章 公共訴訟の未来
<書籍情報>
集英社新書『はじめての公共訴訟 社会を動かす、私たちのツール』
著者:井桁大介、亀石倫子、谷口太規、丸山央里絵
発売日:2026年5月15日(金)
電子版発売日:2026年5月22日(金)
定価:1012円(本体920円+税)
出版社:集英社
<著者プロフィール(五十音順)>
井桁大介|CALL4 副代表、弁護士
公共訴訟を専門分野として位置付け、これまでに25件ほどの公共訴訟にかかわる。認定NPO法人CALL4創設メンバーの一人。LEDGEの事務局を担当。共著に『スノーデン日本への警告』『スノーデン監視大国日本を語る』(集英社新書)。
亀石倫子|弁護士
刑事事件を中心に経験を積み、タトゥー裁判、GPS捜査の違法判決、「クラブ風営法違反事件」といった著名な事件で無罪を勝ち取る。2023年から一般社団法人LEDGEの代表理事として、公共訴訟の普及や支援に従事。共著に『刑事弁護人』(講談社現代新書)。
谷口太規|CALL4共同代表、弁護士
司法アクセスの改善をライフワークとする。外国人事件や貧困支援、コミュニティづくりなどに取り組みながら、公共訴訟や刑事事件のエキスパートとしても活動。CALL4の創設者兼共同代表理事を務めつつ、LEDGEのディレクターでもある。
丸山央里絵|CALL4共同代表、クリエイティブディレクター
情報誌の編集長を経て、2018年に独立してCALL4のメンバーとなり、2023年から共同代表理事を務める。クリエイティブディレクションを担当するほか、ライターとしても訴訟の背景やそこに込められた人々の思いや物語を届ける。
※本記事は、2026年5月15日に発売の集英社新書『はじめての公共訴訟』から序文を転載したものです
※本書の印税は全額、認定NPO法人CALL4および一般社団法人LEDGEに寄附されます