この社会の未来を考える言葉を取り戻すために

2026.9.23

「18歳未満にも選挙で応援する自由を」訴訟を歩む若者たちと弁護団のストーリー

中学3年生の朝のことだった。通学路を歩いていた15歳のAさんの目に、街頭で声をあげるひとりの政治家の姿が飛び込んできた。「すごくいいな、応援したい」と心を動かされたAさんは、気づけば自らその政治家に歩み寄っていた。

「応援させてください」

「じゃあビラ配りとかしてくれる?」と応じられ、手渡された紙を手に街頭に立つ。学校という守られた世界を一歩飛び出したことで、それまでにない充足感があった。一つひとつが、自分の手で社会に関わっているという確信になっていった。

「直接的に社会を変えることにつながる活動に携われたことがすごく嬉しかったです」

しかし、選挙が近づいたある日の朝、相手陣営のスタッフからこう告げられる。「未成年の選挙運動は違法じゃないの? 逮捕されるかもしれないよ」

「めちゃくちゃびっくりしたし、本当に怖かった。毎朝早起きしてビラ配りをしていただけなのに、『俺、逮捕されるのかな』と思いながら学校に向かって……その日の授業は、全く頭に入ってこなかった」

夕方、暗い気持ちのまま家に帰り、Aさんは応援を断念することになる。「そうだよね、怖いよね」と気遣う政治家の言葉が、かえって切なかった。実際のところ、この時点で選挙はまだ公示されておらず、Aさんが行っていたのは選挙期間外の「政治活動」に過ぎない。法的にも何ら違反ではなかったのだが、大人社会が15歳の少年に「前科」の恐怖を突きつけたのだ。

こうして、Aさんが主権者として一歩を踏み出した手応えは、大人たちが作った不透明なルールの前に、あっけなく阻まれることになる。

角谷樹環(かどや・こだま)さんもまた、2022年の夏に似たような壁にぶつかっていた。当時17歳だった彼女が社会に関心を持った原点は、気候危機の問題だった。温室効果ガスの削減目標やエネルギー政策など、自らの未来の生存に直結する決定を下すのは政治だ。だから、2022年の参議院選挙の期間中、仲間とともに候補者へインタビューし、気候変動への取り組みをSNSで投稿しようとした。

だが、成人したメンバーからストップがかかった。「まだ未成年だよね。投稿するのは危険かもしれない」。自分が処罰の対象になると知った時、角谷さんもまた活動を諦めるしかなかった。「票にならない未成年」の声は政治家に届きにくく、気候危機という将来に直結する課題の最前線にいる当事者でありながら、選挙期間中は何も主張できなくなる恐れと歯がゆさ。

なぜこのような理不尽なことが、起きているのだろうか?

その理由は、日本の「公職選挙法」という法律にある。

▲左から「18歳未満にも選挙で応援する自由を」訴訟の原告Aさん、角谷樹環さん。東京地裁のそばに位置する日比谷公園にて

18歳未満の選挙運動の禁止とは

日本の現行法において、18歳未満の政治参加は不思議な「二重基準」に晒されている。 普段の政治活動や政策についての意見表明、デモへの参加などは自由だ。しかし、ひとたび「選挙期間」に入った瞬間、特定の候補を応援したり、SNSで「この人を応援しよう」とリポストしたりする行為、いわゆる「選挙運動(※1)」は、公職選挙法(137条の2、239条の2)によって一律に禁止され、違反すれば罰金や禁錮といった「刑事罰(前科)」の対象となる。なぜ日常の意見表明は許され、選挙の応援だけが「犯罪」になるのか。この線引きに、一体どんな合理的理由があるのだろうか。

公職選挙法が定める「18歳未満の選挙運動の禁止」が憲法違反であるとして、2025年2月、未成年(提訴当時含む)だった原告4名が、この法律は「政治的表現の自由を侵す憲法違反」だとして、国を相手に立ち上がった。

提訴から約1年半後。真夏の足音が近づく梅雨明け、2026年7月上旬に「18歳未満にも選挙で応援する自由を訴訟」は、結審を迎えた。東京地方裁判所の法廷を出た若者たちの表情には、やり切った清々しさと、9月に待ち構える判決に向けた静かな熱気が混ざり合っていた。

その日、原告のAさんと角谷樹環さんがインタビューに応じてくれた。

▲左から、原告の宮田香乃(みやた・よしの)さん、角谷樹環さん、竹島一心(たけしま・いっしん)さん。提訴時の記者会見の様子。当時未成年だった一年半前のこの日を振り返りながら、角谷さんはインタビューに答えてくれた

民主主義の練習と大人としての責任

「提訴した時よりも、この裁判が自分にとってどれほど大きな意味を持っているか、法廷を出た瞬間に強く感じました」

角谷さんは、未成年だった提訴当時から成人となった現在の時間の流れを振り返りながら、法廷を出た直後の心境をそう振り返る。気持ちの揺らぎがなかったわけではない。裁判に関わった当初は「まあ、未成年も参加できたほうがいいよな」という素朴な気持ちだったという。しかし1年半の裁判を通じて原告の仲間や弁護団と言葉を重ね、自らの経験を見つめ直すなかで、この訴訟の位置づけが、自分だけではなく次世代にとって大事なこと、ひいては「民主主義の根幹」に関わる問いなのだと、彼女の中で気持ちが変化したという。

その日彼女は最終弁論で、裁判長をまっすぐ見つめてこのように訴えた。

「立法事実すらないままに、現状のように未成年の権利、特に民主主義国家においてその民主主義の根幹ともいえる政治に参加する権利が侵害されている状況は、間違いなく見直されるべきではないでしょうか」

角谷さんは高校生活のなかで、学校での教育と社会のルールの間にあるギャップに、ずっとモヤモヤを抱えてきた。彼女は当時の気持ちを振り返り、民主主義には「練習」が必要であるという。

「18歳になって突然『はい、今日から選挙権があるから政治について考えよう』と言われても、難しいと思うんです。こういう法律の影響で、政治に関わることを避けがちになって、成人しても関わらないという悪循環を生んでいると思っていて。政治と自分の生活が結びついていると感じるためには、トライできる『練習の期間』が必要ですよね。未成年のうちにその練習ができる社会が理想的だなと思って」

原告たちの言葉に耳を澄ませるうちに、取材をしているわたし自身、大きな責任を感じてきた。角谷さんの指摘する通り、日本の学校現場では未成年に対しても「主権者教育」が行われている。そして世間の大人たちはよく、「いまの若者は政治に無関心だ」「もっと主権者意識を持て」「選挙が大事だ」と語る(わたし自身も何度も口にしたことがある言葉だ)。主権者教育の実践がいかに法律によって阻まれているか、原告のひとりAさんの体験もそれを象徴している。高校時代、参議院選挙に合わせて校内で「模擬選挙授業」を企画した際のことだ。政党の議員を招こうとしたが、選挙期間中の開催リスクを恐れた議員側から「公選法違反になるかもしれないから参加できない」と断られてしまった。総務省のガイドラインを読んでも何が違反になるのか曖昧で、結局企画は流れてしまったという。「主権者教育」を掲げながら、生徒が自発的に行おうとする学びの実践が阻まれてしまうのだ。

原告たちの話に、わたし自身が問い返された。若者から政治への関心や主権者意識を奪ってきたのは誰だったのだろうか。

わたしたち大人ではないだろうか——。

政治への関心の低さを憂いながら、選挙という実践の場になると、法律が「やるな」と刑事罰の恐怖を突きつける。そう、教育と法制度の間に横たわるこの矛盾を放置し、若者たちを政治から遠ざけていたのは、他ならぬわたしたち大人社会の理不尽な構造である。取材をしながらわたしもまた、若者の意欲を削ぎ続けてきた大人たちの責任に向き合うことになった。

角谷さんは続ける。

「政治に参加する権利は、必ず必要なものであるし、他の権利と一線を画す重要さがあると感じるようになりました」

「いま、政治状況がどんどん悪化している中で、もし選挙期間中で何にもできなかったら……。そう想像した時、提訴した時よりもさらに恐ろしくなりました。投票もできず、立候補もできず、声すらあげられない。こんな歯痒いことないし、恐ろしいことはないなって」

▲角谷さんは、他の原告や弁護団の話を聞くたびに「本当に取り組まないといけない問題だ」と、改めて思いを強くしていったという

表現の自由が、なぜこれほど大事な権利なのか?

原告弁護団の戸田善恭弁護士も、この法律が「未成年を軽んじている」ことを指摘する。日本国憲法は、選挙運動を含む政治的表現について、年齢による区別を設けていない。にもかかわらず、日本の法律では、18歳になるまで選挙の応援ができない。戸田さんはこの理不尽な現実から、訴訟の法的な核心が「未成年の基本的人権が侵害されていること」だと教えてくれた。

「今回の裁判は、単なる選挙制度の仕組みの話ではありません。憲法が保障する『政治的表現の自由』という、決定的に重要な基本的人権が侵されている問題です」

戸田弁護士は、選挙運動は「表現行為」であり、特に政治的表現の自由は、憲法21条が定めるきわめて重要な権利である、と主張する(※2)。その権利が、「18歳未満」という理由のみで完全に奪われている、いわゆる「ゼロ保障」の状態は、憲法違反の可能性が高い。投票権を持たない未成年者だからこそ、選挙中に自分たちの意見を社会に届けるための政治的表現の自由、つまり選挙運動が、主権者として参加するための極めて重要な手段だからだ。

「選挙運動は表現行為と考えられていて、特に政治的表現の自由は、憲法的にめちゃめちゃ重要な権利なんですよね。それが今の法律では、18歳未満の若者たちから完全に剥奪されている状態になっています。何かの条件をクリアしたら選挙運動できる、というレベルの話ではなく、18歳になっていないという一点だけで、何もできない。完全な剥奪が生じています」

「なぜ『表現の自由』がこれほど憲法上重要な権利なのかというと、曖昧で厳しい規制がもたらす『萎縮効果』のためです。処罰を恐れて表現が萎縮すると、民主主義の土台となる自由な議論そのものができなくなってしまう。そうすると、社会や政治を自らの手で変えていくためのルートそのものが、閉ざされてしまいます」

世界を見回してみても、未成年者の選挙運動を一律に禁止し、刑事罰をもって処罰するような国は極めて稀だ。諸外国の法規制を調査した際も、日本と同等に厳しいルールを設けていたのは、かつて日本の法制度を輸入した歴史的経緯のある韓国しか見当たらなかったという。海外の多くの民主主義国では、18歳未満であっても選挙運動は当然の権利として尊重され、選挙期間中も若者の政治参加は、市民教育の一環としてポジティブに捉えられている。

▲ノルウェー オスロでの自治体議員選挙で、候補者のチラシを配る10代の若者たち(2023年)提供:能條桃子さん

「当事者のいない部屋」で決められた理不尽な法律

なぜ、これほどまでに理不尽な法律が残り続けているのか。弁護団は、この法律が生まれた歴史の背景を精査する中で、立法事実がさしてなかったことを突き止める。

「ある法律が制定されるためには、必ずその法律が存在するための必要性が議論されなければなりません。これは法律用語で、『立法事実』と呼ばれます。この法律に関してはその立法事実がさしてなかったことが、この裁判で明らかになりました」

国側(被告)は、この法規制の理由として「選挙の公正」や「心身未成熟な者の保護」を主張している。しかし、戦前や戦後の国会議事録を精査してもその合理的な根拠は乏しい。

歴史を辿ってみると、戦前大正14年の国会審議において「こういう政治運動の好きな者は落第し、高等遊民となって文章や演説で憂うべき思想問題に悪影響を及ぼす」といった趣旨の発言(※3)が残されている。戸田弁護士は、現在の法律の背景にこのような戦前からの「思想統制」の価値観が色濃く影を落としているのではないか、と指摘する。

「公職選挙法自体は戦後にできたものですが、その根底には戦前、つまり天皇主権の時代の感覚がそのまま残ってしまっている部分があるように感じます。当時は国民が声を上げるというより、お上が有権者を決めるという発想でした。その感覚が戦後になってもアップデートされないまま、当時の議員たちによって十分な裏付けもないまま成立し、今日まで引き継がれてしまったのではないでしょうか」

結局、当事者である未成年者がひとりもいない部屋で、未成年を使って選挙運動したひとたちだけではなく、未成年者本人も罰するシステムにした方が「取り締まりがしやすい」という安易な管理発想で法が制定されていたことが明らかになっていく。

さらに、法規制の理由として「未成年の保護」をあげる大人たちは「未成年は“未熟”だから悪用される、巻き込まれる」と考えている。同時に、未成年を「権利」を持つ人間ではなく「保護」の対象として見なす。このロジックには、原告のAさんも不信感を口にした。

「誘拐されたら、誘拐された子どもも捕まったみたいな感じ。意味がわからないじゃないですか。大人が子どもを利用して悪質に選挙運動をさせたなら、処罰されるのは大人だよね、ってだけなので。どういうロジックが成立しているのかすごく気になります。世の中に対する解像度が低すぎるというか……」

まさにAさんの言う通りだ。仮に未成年を悪用する大人がいたとしても、摘発されるべきは悪質な大人であって、利用された子どもではない。「未成年を守るため」という理由が、未成年が罰を受ける理由にはならないことは当然であろう。たとえば、未成年の飲酒を防ぐ法律では酒を売った業者や保護者が罰せられるのであり、保護対象である子ども本人が刑事罰を受けることはない。子どもを「保護」の対象にしながら「刑罰」の対象にしている法律は、憲法31条から導かれる「侵害原理」(※4)にも真っ向から反している。

「この程度で法律を作っちゃってて、それまで許してきたんだ、この国の人たちは……っていう気持ちがすごくありました。国のことを決める立場にいる人たちが、やっぱり思ったより私たち若者のことを考えてくれていないんだなっていう意識が強まった裁判でした」

隣でAさんの言葉を聴いていた戸田弁護士は大きく頷く。わたしもまた、Aさんのまっすぐでまっとうな怒りを、どう社会に届けたらいいのだろうか?と思いを巡らせていた。心にズドンと投げ入れられた大きな問いを前に、インタビューをしながら「若者なのにすごいな」と思ってしまっていた自分に対して、恥ずかしさと居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

▲「若い人たちが政治参加できる基盤を、法律として、ちゃんとつくってもらいたい」と戸田弁護士

「出る杭を打つ」閉塞感を越えて、カッコいい大人になるために

Aさんが危惧するのは、法律の理不尽さだけではない。今回の裁判を通じて、声をあげるひとを「めんどくさいやつ」と言ったり、お互いを監視して「出る杭を打つ」社会の空気感に対しても、危機感が募っていったという。

「いまの社会の一番の問題は『出る杭は打たれる』ことだと思っていて。しかも、誰か特定の人が打つというより、みんなでお互いを監視し合って、出る杭があったら潰し合う構造になっている。全員が被害者であり加害者になっているのが致命的です」

そんな空気感があっても、Aさんは裁判を通じて社会が変わる手触りを確かに感じていた。「今回の裁判で、法律が変わったら本当に最高」と、自身のポジティブな思いを言葉に込める。

「おかしいと思うことをおかしいと言ったら実際に社会が変わるんだとか、それを主張していいんだってことを周りにも知ってほしい。選挙運動ができないことで、ご飯が食べられなかったわけじゃない。我慢しようと思えばできる。でも、こういう社会に対する小さなモヤモヤって、自分が行動することによって解決できるんだよ、っていうのは、大きいメッセージになるんじゃないかなって思います」

「大人の価値観には、『子どもが何かを主張しているのは望ましくない』『子どもは外で楽しく遊んでいてほしい』みたいなのが根底にあるのかな。わたしもちっちゃい子がスマホ見てたら「外で遊んだらいいのに……」って思うので、気持ちはわかるんですけど(笑)。それを思うのはいいんだけど、権力を持っている人が「法律」という強い形でやってしまうのは、暴力的なことだと思うので。ダメだなと思います。というかダサいなって笑」

最後にAさんに「これからどんなふうに社会に関わっていきたい?」と聞くと、微笑みながら、「カッコいい大人になりたい」と答えてくれた。

「今回、社会のことを調べれば調べるほど、ダサすぎる大人を目にする機会が多かった。冷笑とか。でも同時にカッコいい大人にも何人も会えたので。そういうカッコいい大人になりたいなってすごく思いました」「自分が生きているうちに、社会が変わって、みんながのびのびと発言できる社会を一緒につくっていけたらと思っています」

▲Aさんに、原告になることに躊躇はなかった?と尋ねると、母から「ちゃんと考えた方がいいんじゃない?」と一度言われ、考えたからこそ「やろう」と決意できた話をしてくれた。結審の日、裁判所にはAさんの母の姿があった

この社会の未来を考える言葉を取り戻す

日本の最高裁判所において、国会が作った法律そのものを憲法違反と認める判決(法令違憲)は、戦後約80年の中でわずか14例しか存在しない(2026年9月現在)。極めて高いハードルではあるが、戸田弁護士は「司法が厳格な基準で違憲性を審査すべき事案。制度論に逃げずに正面から判断を下してほしい」と、判決に期待する。

この裁判が問いかけたことは、単なる「未成年の権利」にとどまらない。大人たちが作った不条理なルールに抗い、自らの手で民主主義をたぐり寄せようとした若者たちの一年半は、いち主権者として、民主主義や政治的表現の自由、この社会の未来を考える「言葉」を自分たちの手に取り戻すための道のりだった。

そもそも、政治参加とは誰の・何のための権利なのだろうか。テストや進路選び、バイトに追われる日々の中で、裁判を通じて未成年の原告たちが紡いできた言葉に、わたしたち大人はどう応えられるだろうか。

角谷さんの切実な言葉は、わたしに、わたしたちみんなに向けられている。

「生活の中で政治的じゃないことはないと思っています。もしかしたら、あなたが抱えている困難は政治の問題かもしれないし、私たちは『一緒に良くしていける』かもしれない。さまざまなひとがこの裁判に興味を持ってくれて、生活と政治を近くする方法を一緒に模索できたら嬉しいです」

取材・文/田代伶奈(Reina Tashiro)
撮影/雨森希紀(Maki Amemori)
編集/丸山央里絵(Orie Maruyama)