つらかった、悲しかった、苦しかった64年間。国は間違った手術だったと認めてほしい

2022.3.15

旧優生保護法に人生を奪われた北さんと、関哉弁護士のストーリー

「2万5千人の中には、すでに亡くなっている人たちが大勢います。裁判に訴えた原告でも、北海道でひとり、仙台でひとり、福岡でひとり、神戸でひとり、無念の思いで亡くなっています。その人たちの思いはどんなだったかーー。勝ったよ、と伝えたい気持ちでいっぱいです。」

そう語る原告の北三郎さん(仮名)は、旧優生保護法による強制不妊手術の被害者2万5千人の1人であり、全国で提訴した25人のうちの1人だ。

北さんは、14歳のときに一方的に“断種”された。それは、「あなたは不良な人間で、子どもを産んではいけない存在なのだ」と、社会から言われたことを意味した。手術のことは自分の胸だけに閉じ込めて、60年以上を生きてきた。手術時だけではなく、北さんはその人生を通じて被害を受け続けてきた。

「ひとりでも多くの人に名乗りをあげてほしい」という思いから、顔を表に出して訴訟活動をしてきた北さんは、東京地裁判決で請求棄却をされた後、ショックで数日は眠れなかったという。

そして、2022年3月11日ーー東京高裁、逆転勝訴。裁判官は国の責任を認め、賠償を命じた。報告のために裁判所から出てきた北さんを、門の外で待っていた支援者や報道陣が「おめでとう」の声と拍手で出迎えた。

「つらかった、悲しかった、苦しかった。本当に長い道のりでした。感無量です。」

▲裁判所から出てきた北さんは、門の外で拍手をして出迎える人びとの姿を見て目元を押さえた

不良と呼ばれて

家庭の事情もあって13歳の頃からひどい反抗期を迎えたという北さんは、「いろいろな悪さをして、地元にいられなくなって」、不良行為をする恐れのある児童の自立支援施設『修養学園』に預けられたのだと、当時のことを話してくれた。

「施設には、親がいない子どもや、親に見捨てられた子どもなどが入っていました。」

14歳になったある日、北さんは入所した施設の先生に、「悪いところをとるから」と言われて、近くの産婦人科へ連れて行かれた。「なぜ男が行くんだろう」と思ったが、誰も何の説明もしてくれなかった。そうして知らぬ間に不妊手術を施された北さんは、腹部に激しい痛みを抱えながらタクシーで帰路についた。

「子どもができなくなる手術だと聞いて、もう、呆然としましたよ。」

寮に戻った北さんに、先輩が手術の意味を教えてくれた。他にも手術を受けている人が施設に何人もいるらしかった。障害のない北さんがなぜ選ばれたかは今もわからない。北さんは手術の約1カ月前、施設内でめずらしく両親を見かけたことを思い出して、あの時に決められたのだろうと怒りに震えた。

やがて中学を卒業。「お金を出したら治るんじゃないか」、そんな一縷(いちる)の望みを抱きながら、北さんは修理工場に住み込みで働き出した。そして、先輩が口にしていた「パイプカット」という単語を図書館で調べて、絶望した。自分がされた手術は、精管を切断または結ぶことで、精巣から精子を運べなくするものだとわかった。北さんはそのとき、一生独身でいようと決めたという。

▲北さんは当時、仙台市で暮らしていた

60年後に知った真実

「私は、手術のことでずっと、両親を憎んできました。その恨みのせいで、母親が病気で亡くなる直前、私は、母親から握られた手を握り返すことができず、振り払ってしまいました。あの時、母親の手を振り払わなければよかったと、ずっと後悔しています。」

北さんは法廷で、裁判官に向かってそう陳述している。

「誰も本当のことを教えてくれませんでした。ずっと苦しんできました。 」

しかし、今から4年前、北さんはたまたま手に取った新聞を見て驚いた。そこには、仙台に住む強制不妊手術の被害者が国を初めて提訴したニュースが報じられていた。自分と似た境遇だった。半信半疑でホットラインに問い合わせて、弁護団とつながった。自分が受けた差別的で暴力的な行為は、当時、国の法律によって積極的に推し進められていたものだったーーようやく真実を知った北さんの胸に、長年閉じ込めてきた思いがあふれた。

「人生を返してほしい。それが無理なら、せめて間違った手術だったことを認めてほしい。」

弁護団の支援を受けて北さんは、2018年5月、自らも裁判を起こす。旧優生保護法の存在を知った当時の気持ちを北さんは、こう語っている。

「“不良”という言葉を聞いて、そして、自分がその対象とされたことを知って、やっぱり家族や社会からは、そのように思われていたんだなと、納得するのと同時に落胆しました。 子どもを産む資格がないと言われたんだなと思いました。」

「一生懸命に生活して、人一倍努力してきて、何が(他の人と)違うのかな、と思います。」

「当たり前に生きて、人間の価値がないと言われるのは、本当につらいです。」

▲このインタビューは高裁判決の10日前に行われた

旧優生保護法と除斥期間

「優生保護法とは、戦後の人口抑制の政策の中で、“不良な子孫の出生を防止する”という目的のもとで、障害のある方などを対象に強制的な不妊手術を許していた国の法律です。」

北さんの代理人の関哉直人弁護士は説明する。

旧優生保護法は1948年に施行され、その後の法改正で身体障害者や知的障害者に加えて精神障害者も対象になるなどして、だんだん手術件数も増加していった。1996年の法改正でようやく強制不妊手術の箇所が削除され、名前も「優生保護法」から「母体保護法」へと変わった。言い方を換えれば、日本では25年ほど前までは、医師が申請により優生保護委員会の許可を得れば、本人の許可なく強制的に不妊手術を行うことは合法だった。

「民法では損害賠償請求権という権利が発生しても、行為があったときから20年が経つと、その権利は消えるとされています。この除斥期間と呼ばれる20年の時間の壁が非常に厚くて。」

被害者は全員、手術から20年が経過している。そのためこれまでの全国の地裁判決では、旧優生保護法が違憲とは判断されたものの、時間の経過を理由に、賠償請求はすべて棄却されてきた。司法の場での尊厳回復がかなわなかった原告らの落胆は激しかった。

しかし、全国初の高裁での判断となった、2022年2月22日の大阪高裁判決がついに風穴を開ける。「本件のような重大な人権侵害が行われた事案に、形式的に20年という除斥期間を当てはめることは、著しく正義と公平に反する」。極めて例外的な、人生損害ともいうべき大きな被害に向き合う判断がなされたのだ。

「大阪と同じく勝ってほしい。それがとにかく一番の願いです。北さんの権利が救済されることが、まず何よりなので。」

東京高裁の判決前に、関哉弁護士は率直な思いを話してくれた。

▲東京弁護団長も務める、関哉弁護士。障害者の支援に数多く取り組んでいる

東京高裁、逆転勝訴

2022年3月11日の東京高裁の判決は、大阪よりさらに人権救済に踏み込んだ、画期的なものだった。判決後の法廷には、自然と拍手が巻き起こった。

判決では、被害者の多くが国から子孫を持つことを防ぐべき存在として選抜される激しい差別を受けたこと、そして、意に反して強度の生体的な負担を伴う不妊手術を受けさせられ、生殖機能を回復不可能にされたことは強度の人権侵害だとした。

そして、憲法違反の法律に基づく施策によって生じた被害の救済を、下位となる民法の除斥期間を無条件に適用して拒絶することは、著しく正義と公正の理念に反すると裁判長は述べた。

さらには、国家賠償請求は、被害者への一時金支給法の施行時点から5年間は可能であるとした。

2019年に施行された一時金支給法は、実際の損害に比べればわずかと言える額(320万円)ながら、被害者に国が一時金を支払うことを定めた法律だ。いまだに障害者差別の厳しい環境下であることから、早期の請求が困難な場合も配慮して、申請は法の施行から5年以内は可能とされた。今回の判決では、この法の施行時点でようやく社会全体が、強制不妊手術は違憲であり、不法行為だったことを明確に認識したと判断した。そして国家賠償請求の期間も、支給法と同じく5年間の猶予期間を与えるのが相当とした。

北さんだけではない、旧優生保護法による被害者すべての救済に道を開いた判決だった。

東京高等裁判所の平田豊裁判長は、判決を言い渡した後、北さんや法廷で見守る人たちに向けて、こう告げた。

「原告の男性は、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制され、憲法が保障する平等権、幸福になる権利を侵害され、子どもをもうけることができない体にされました。しかし、決して人としての価値が低くなったものでも、幸福になる権利を失ったわけでもありません。」

「原告の方には、自らの体のことや手術を受けたこと、訴訟を起こしたことによって差別されることなく、これからも幸せに過ごしてもらいたいと願いますが、それを可能にする差別のない社会を作っていくのは、国はもちろん、社会全体の責任だと考えます。」

北さんは耐えきれず嗚咽(おえつ)したという。

「正義ってあったんだ…」誰かのつぶやきが聞こえてきた。

▲裁判所前で勝訴の旗と判決正本を掲げて喜ぶ、北さんと東京弁護団

最後の会話

実は、北さんは20代後半で結婚をしている。断ったにもかかわらず、職場が勝手に縁談を進めたのだ。結婚当初の数年ほどは、予想通り周囲から「なぜ子どもができないんだ」「種なしか」と責められたが、北さんは沈黙を貫いた。他の家の子どもをあやす、うれしそうな妻の顔を見るのはつらかった。妻からは一度、「病院に行ってふたりで調べてみようか」と言われたが、北さんが断ったきり、もうその話はしなくなった。やがてふたりは周囲から、おしどり夫婦と呼ばれるようになる。

結婚40年目を過ぎた頃、妻の病気が発覚し、今夜が山場だと医師に伝えられた北さんは、病室で「ずっと隠していたことがある」と切り出したという。

「14歳のとき、子どもができなくなる手術をされたんだ。今まで裏切っていてごめん。どうか許してほしい。」

泣きながら頭を下げる北さんに、妻はただ、うなずいた。

「私がいなくなっても、ご飯ちゃんと食べるんだよ。」

それが夫婦の最後の会話だった。

「過去のことは考えると悔しくて、悔しくて、もうつらいから考えないようにしているんです。良い思い出だけにしたい」と、北さんはそれ以上家族について多くを語ろうとしなかった。

そんな北さんが、勝訴判決を受けた記者会見の場で発した第一声は、「帰ったらすぐに亡くなった妻に報告したいです。姉と相談して、親の墓参りにも行こうと思います。」というものだった。

そして、締めくくりは責任感の強い北さんらしいメッセージで終えた。

「被害者は高齢化が進んでおり、裁判の途中で無念の思いで亡くなっている方もいます。国は上告などしないで、被害者に向き合って、1日も早く解決に向けて動いてほしいです。」

▲入廷前に手作りコサージュを支援者へ配る北さん。妻の好きだった梅の花に、「正義と公正な裁判を」の短冊を下げて

優生思想と向き合う社会へ

私たち市民一人ひとりは、この問題に対して何ができるだろうか。尋ねると、関哉弁護士はこう言葉を返した。

「ずっとこの事件を忘れないでほしいです。」

弁護団は全国各地の訴訟を継続してたたかいながら、当面は二つの高裁勝訴の判決を受け、被害者の人権救済に向けた全面解決への道を、つまりは被害者への救済が手薄な現状の一時金支給法を法改正して、きちんと被害に見合った補償を行うように、国会に強く働きかけていくという。

「その動きを応援して、国の動向を注視してほしい気持ちがまずはあります。」

「けれどもう一つ。優生思想をそれぞれに考えて、次の世代に伝えていく。その役割を担ってほしいと心から思っています。」そう関哉弁護士は続けた。

優生思想とは、優れた血統を残し、劣った血統をなくすことで人類全体の質を高めることを目的に掲げる思想だ。日本で強制不妊手術が繰り返されていた当時、驚くことに世界のあちこちの国でも優生思想に基づく法律や政策は存在していた。その後、1970年代にアメリカやカナダで法の撤廃が始まり、続く国が徐々に増えていった。

けれど、優生思想はいまだ過去のものにはなってはいない。人に優劣をつける心理は誰の心にも潜んでいるからだ。「生産性のない人間に価値はない」、そんないのちを選別する誤った風潮はむしろ高まっているようにさえ感じられる。関哉弁護士はいう。

「一人ひとりが差別を受けている人たちのことを我が身と考えて、これからの国の教育や政策に反映したり、自分の身の回りの誰かに伝えたり。それぞれのできるところから関わっていかなきゃならない。そう思うんです。」

「手術が施されてから64年、生きること自体がつらく、苦しかったですが、ようやく希望の光が見えた気がします。」そう話す北さんは、偏見の逆風の中でも信念を貫いて、差別のない社会への道を切り拓いた。次は私たちが向き合う番だ。

▲判決後、報告集会へと向かう道を、北さんと関哉弁護士は喜びを噛みしめながらふたりゆっくり歩いたという

取材・文・構成/丸山央里絵(Orie Maruyama)
撮影/柴田大輔(Daisuke Shibata)
編集/杜多真衣(Mai Toda)