16歳で知らずに受けた不妊手術。強制した国に謝罪を求め、声を上げ続ける

2022.2.24

旧優生保護法に人生を奪われた飯塚さんと、新里弁護士のストーリー

ある日、16歳の飯塚淳子さん(仮名)は住み込み先の家の人から「出かけるからついておいで」と言われ、家を出た。たどり着いたのは仙台市の中央を流れる広瀬川に架かる、愛宕橋(あたごばし)。たもとのベンチでおにぎりを食べた後、歩いてたどり着いたのは近くの県立診療所だった。なぜかそこには父親が待っていて、飯塚さんは何も知らされないままに注射を打たれ、手術台に上がった。

「どのように手術されたかは覚えてなくて、気が付いたときはベッドの上。喉が乾くので水を飲もうとしたら、だめだよって看護師さんに止められたことだけはよく覚えてます。」

そのときに卵管を紐で縛られ、一生涯、子どもの産めない身体となったことを、飯塚さんはのちに両親の会話から知ることになる。

今から60年ほど前に実際に起きた出来事だ。そして長い年月は流れて、50代になった飯塚さんのもとに一通の手紙が届いた。亡くなる直前の父からだった。

「やむなく印鑑を押させられたのです。優生保護法に従ってやられたのです。」

真剣な字で綴られていた。飯塚さんは、『優生保護法』という国の法律に従って当時、合法的に断種させられたのだった。

▲愛宕橋(あたごばし)近くの堤防沿いに当時、昼休憩したベンチはあった

「不良な子孫の出生を防止する」法律

優生保護法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」を目的に、1948年(昭和23年)に制定された日本の法律だ。

この法律により、遺伝性の知的障害や精神障害などの病気があるとされた人への「優生手術(生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術)」が定められた。たとえ本人の同意がなくても、医師が申請して優生保護審査会の許可を得れば手術は認められた。また遺伝性でない場合でも、保護義務者の同意があれば同じく認められた。

国による明らかな障害者差別であり、許されない深刻な人権侵害ーー今となっては、誰もがそう思うだろう。しかし、およそ信じられない話だが、世界的な優生思想の運動により、当時は多くの専門家や市民がその正しさを信じた。

結果、優生手術は国策として、1996年(平成8年)に優生保護法が母体保護法へと改正されるまで、48年もの長きに渡って継続される。厚生労働省の記録によれば、旧優生保護法により日本で強制的に不妊手術を受けた人は約2万5千人。中には9歳の子どももいたという。

「あの日からやり直せたら…。」

取材班の車が愛宕橋を越えたとき、今は70代の飯塚さんが、後部座席でつぶやく声がした。到着した診療所跡地は駐車場へと変わっていた。

宮城県立の不妊手術専門診療所は1971年(昭和46年)に廃院となり、診療記録がどこに引き継がれたかさえ、もはや定かではない。飯塚さんの公式な手術記録はどこにも残っていない。

▲診療所の跡地を指差す飯塚さん。過去にマスコミ取材を受けたときに教えてもらったという

「人生、本当に返してもらいたい」

飯塚淳子さんは東北沿岸部の集落に、7人きょうだいの長女として生まれた。父は身体が弱くて長期の出稼ぎに出られず、家は大層貧しかった。14歳の飯塚さんは公立中学に通いながら子守りや飯炊きをして母を助けていたという。

ところが、近所の民生委員が、飯塚さんにまったく身に覚えのない泥棒の嫌疑をかけて、福祉事務所に報告。一家が生活保護を受けていることも理由に、飯塚さんを「家庭指導困難な知的障害児」と決めつけ、中学3年時に、知的障害者の収容施設「小松島学園」に入れてしまう。小松島学園は、「愛の10万人運動」という寄付活動で仙台市に設立されたばかりで、当時、民生委員が収容者を集めていたことが、のちの報道で明らかにされている。

「あと1年で卒業したら親を楽にさせてあげられる、働いて親を助けようという思いがあったのに…。」

そう話すと、飯塚さんは手元のファイルをめくり、中学2年のときの担任から届いたという手紙を見せてくれた。便箋には、「いわゆる知恵遅れという印象は残っておりません」の文字があった。先生から見て、飯塚さんは一般的な生徒だったのだ。実際、飯塚さんは20年ほど前に医師の診察を受け、知的障害なしの診断をされている。

▲飯塚さんはひとり暮らしのご自宅で当時を語ってくれた

小松島学園に入れられたことにより、知的障害者とされた飯塚さんは、中学卒業後、職親(知的障害者の生活や職業の指導をする人)のもとで住み込みの家事手伝いをすることになる。職親からは日常的に虐待を受けた。バカだとののしられ、「他人の子だから憎たらしい」と馬乗りになって叩かれ、食事も十分にとらせてもらえなかった。つらくて一度逃げ出したが、すぐに連れ戻されて、県の相談所で知能検査を受けさせられた。

のちに飯塚さんが情報公開請求をして入手した当時の検査判定書には、「礼儀、対人態度良好」のことばと並んでこう書かれている。軽度の知的障害を指す「魯鈍(ろどん)」、そして「優生手術の必要を認められる」。検査は杜撰(ずさん)だった。しかし、それがあの日の手術をもたらした。

その後、飯塚さんは自分を愛宕の診療所へと連れていった非情な職親のもとを離れ、親に紹介された職場で働いた。家庭に憧れて結婚するも、子どもができないからと離婚を切り出された。1990年に再婚した飯塚さんは、今度は夫を信頼して手術を打ち明けた。しかし、夫の親族や勤務先の人びとから一斉に非難を浴び、離婚を迫られた。夫は去っていった。「優生手術を受けた人間は不良」という差別意識は、それだけ深く人びとの心に根ざしていたのだ。

離婚に深く傷ついていた飯塚さんは、しばらくして冒頭の父の最後の手紙を受け取ることになる。そして、国に謝罪と補償を求めて声を上げることを決意する。厚労省には「当時は合法だった」とあしらわれたが、それでも決してあきらめなかった。飯塚さんはいう。

「人生、本当に返してもらいたい。(国に)きちんと責任取ってもらわないと終われないです。」

▲料理上手な飯塚さんは、煮物やゆで卵などの手料理で温かくもてなしてくれた

出会い、そして念願の提訴

新里宏二弁護士と飯塚さんの出会いは、今から10年ほど前にさかのぼる。2013年8月、地元仙台で新里弁護士が「なんでも法律相談」を行っていたところに、飯塚さんがやってきたのだ。飯塚さんが国に最初に謝罪と補償を求めてから16年が経過していた。

「(優生手術のことは)知らなかったけども、これはひでえやなって。法律家として、なんとかしなきゃいかんって思ったよね。」

新里弁護士はすぐに国家賠償請求訴訟を起こすことを考えたという。しかし手術や法改正から長い年月が経っている上、飯塚さんの正式な手術記録が失われていたことなどが困難を極めさせた。

▲仙台の弁護団を率いる新里宏二弁護士。消費者問題に多く取り組み、2011年から1年間は日弁連の副会長も務めた

そこで2015年6月、飯塚さんは新里弁護士のサポートのもと、「優生手術は、憲法13条で保障された基本的人権を踏みにじるものである」として、日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立てた。訴えはマスコミに取り上げられ、旧優生保護法の存在は一躍話題となった。

翌年には、国連が日本に被害者救済や補償を行うように勧告。2017年2月には、申し立てを受けた日弁連が意見書を厚労省大臣に提出する。

そのニュースを耳にしたのが、同じ宮城県に住む被害者家族だった。新里弁護士に連絡をしてきて、2018年1月に全国初の提訴にこぎつける。すると、その翌月には宮城県知事が定例会見で記者の質問を受け、飯塚さんの優生手術を認める旨を発言する。医学的に証明でき、検査判定書もあること、また飯塚さんが以前に県に異議申し立てをした際に、当時の県担当者が事実を否定しないと発言していたことなどが理由だった。

そうして、ついに2018年5月、証拠を得た飯塚さんは念願の提訴を果たした。

2019年4月、判決を待たず、被害者へ一時金を支給する法律が、一部国会議員の働きかけにより成立。しかし国の責任は曖昧(あいまい)なまま、支給額も320万円と、被害者が受けた実際の損害にはあまりに少ない金額だった。

その後、札幌で、東京で、大阪で、次々と優生手術被害者が立ち上がり、訴訟の原告に加わった。2022年2月現在、その数は全国で24人となった。支援の輪も全国区で大きく広がってきた。

「彼女が声を上げ続けない限り、ここには至らなかったんだから、すごいなって思いますよ。あれだけ無視されながらもずっと言い続けて。」

新里弁護士は感心した様子で話した。しかし、その直後に「でも」と声を落とした。

「やっぱりそれだけ、彼女が思ってた人生が変わっちゃったんだろうな。この問題をずっとやってきたことは彼女の強さ。でも、本当はもっと柔らかい人生を送りたかったんじゃないかなとは思いますよね。」

▲飯塚さんの若い頃の写真アルバム。「やっぱり人生が狂わされたなって…」と新里弁護士

立ちはだかった除斥期間の壁

2019年5月28日、全国初の地裁判決は、世の注目を大きく集めた。原告の飯塚さん、新里弁護士率いる弁護団や支援者らは、緊張してその日を迎えた。

ーー仙台地裁判決。幸福追求権を保障する憲法13条により、「自分の身体に関することを自身で選択して意思決定する権利(リプロダクティブ権)」を基本的人権として認める。「旧優生保護法」の規定は憲法違反であり無効。ここまでは画期的判断といえた。

しかし、裁判所は、被害発生から長期間経過すると権利行使ができなくなるとする民法の「除斥期間(※)」の規定を適用して、原告の賠償請求の一切を棄却する。

同法が優生思想を根付かせ、当時、被害者が声を上げることが「現実的には困難」だったことまで認めたにもかかわらず、優生手術の被害を受けてからすでに20年の除斥期間が経過しているため、請求する権利は消滅していると飯塚さんらに告げたのだ。

その後の全国での地裁判決もすべて、除斥期間の適用により原告請求は棄却された。中でも2021年1月、札幌地裁の広瀬孝裁判長は、請求棄却の判決理由を読み上げた後にこう述べたという。

「これまで苦労されてきた人生を肌身に感じ、それゆえ(請求を)認容すべきか、直前まで議論に議論を重ねました。しかし、法律の壁は厚く、(術後)60年はあまりにも長く、このような判断となった。」

(※除斥期間:ある一定の権利について、その権利を行使しない場合の権利存続期間。不法行為に基づく損害賠償請求権の場合、不法行為の時から20年を経過したときに消滅する。2020年4月の民法改正で経過期間の更新や停止も可能となったが、施行前に20年を過ぎた問題には適用されないとされる)

▲飯塚さんは地裁判決後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症。今でもときに不安や緊張に襲われるという

意思が集い、全国初の勝訴へ

「違憲な法律で生じた人権侵害に、除斥期間を安易に適用すべきではない。」

これまで弁護団は、原告の正義と公平を真正面から主張してきた。しかし、それだけではどうにも乗り越え難い壁があった。突破口を探る弁護団に、二つの法学者の意見が新たな視点で光を照らしてくれたという。

一つは、本ケースの被害の本質は、人としての尊厳に対する持続的な毀損(きそん)であり、ハンセン病患者と同じく、「人生被害」だというものだ。被害は手術で完結したものではなく今もなお継続している。だから、除斥期間は開始さえしていないのではないか。優生手術だけに目がいっていたことに、新里弁護士ははっとさせられたという。

もう一つは、過去に除斥期間に例外を認める判断をした最高裁判決に依拠して、活路を見出すというものだ。

1998年の「予防接種禍訴訟」では、当時、国が義務付けていた予防接種を生後に受けた後遺症で心神喪失、寝たきりとなった男性が、接種から20年を過ぎて提訴。それまで後見人が不在だったために訴訟能力がなかったとして、国からの補償が認められている。「20年経過前の提訴が事情により困難であれば、後見人が選任されるなど権利行使が可能となった時点から6カ月以内は提訴ができる」という時効停止の法意を使った救済が行われたのだ。ここから今回も道を切り拓くことができるのではないか。

ーーそして、2022年2月22日、大阪高裁判決。裁判所は、ついに国に初の賠償命令を下した。待ち望んだ全国初の勝訴だった。

優生手術の被害は国が立法した違憲な法律による重大な人権侵害であり、除斥期間の適用をそのまま認めることは著しく正義、公共の理念に反する。本来は憲法の理念を推進すべきである国が自ら、差別や偏見を助長し続けてきたゆえに、被害者が訴訟提起の前提となる情報や相談の機会を得ることが著しく困難だったといえる、そう太田晃詳裁判長は告げた。

大阪高裁の判決では、1996年の法改正時を除斥期間の開始とした。近畿地方に住む原告らの提訴はそれでもわずかに除斥期間を経過していた。けれども裁判所は、原告は不妊手術が旧優生保護法に基づくものだと長く知らず、あの仙台地裁の提訴のニュースなどによって初めて認識したことを指摘。そこを著しく困難な状況が解消された時点として、時効の法意に基づいて6カ月以内の提訴を認めたのだ。まさしく、正義のための例外的な救済措置だった。

判決後、吉報を受けた新里弁護士はすぐに飯塚さんに電話をかけた。飯塚さんは泣いていた。

▲飯塚さんの書いた知事への手紙。20年以上、ありとあらゆる方法で被害を訴えてきた

いのちを分けない社会へ

飯塚さんは過去、絶望から何度もいのちを絶とうとした。今も時折、死にたい気持ちに飲まれそうになると話してくれた。法廷での本人尋問で、裁判長から優生手術であなたが失ったものの持っていた意味はなんですかと問いかけられて、こう答えたという。

「友だちの家にお茶を飲みに行くと子どもや孫たちがしょっちゅう来ているので、それを見てうらやましいなって、私もこんなにぎやかな家庭があったらいいなって、いつも思っています。だから、それが奪われたということなんだろうなって、思っています。」

国の法律により生殖能力を奪われた飯塚さんら原告24人の後ろには、さまざまな理由で沈黙する被害者、2万5千人が存在している。その一人ひとりが望んだかもしれないしあわせを、国は一方的に奪った。そして、彼ら彼女らへの差別にお墨付きまで与えてしまった。

飯塚さんの仙台高裁でのたたかいは、今も続いている。大阪に続く良い判決が出るかはまだわからない。もし出たとしても、飯塚さんの60年余りの時間は決して戻ってこない。受けた痛みもなくならない。けれどせめて、自分の人生を奪ったことを謝罪してほしいとずっと訴えている彼女の切なる声が、ようやく実現した裁判で通るようにと願わずにいられない。

国には、優生手術の被害者への人権侵害は決して許されないものであり、二度と繰り返さないと宣言して、これ以上争わず、真摯(しんし)に謝罪をしてほしい。救済制度も、被害者へ十分な補償を提供するものへと変えていくべきだろう。私たちが本当の意味で優生思想と訣別をして、差別のない社会へと歩みを進めていくためにも。

▲愛宕橋を越え、仙台市を見下ろす丘の上で

取材・文・構成/丸山央里絵(Orie Maruyama)
撮影/布田直志(Naoshi Fuda)
編集/杜多真衣(Mai Toda)