「なぜアルジュンさんは亡くなったのか?」遺族に寄り添う4年半

2021.11.23

逮捕中に亡くなったアルジュンさんと支援者、高橋 徹さんらのストーリー

2017年3月13日夕方。拾ったクレジットカードを所持していたことから遺失物横領罪で逮捕されたネパール人のアルジュンさん。

技能(料理人)ビザで来日し、ネパール料理店で働いていた彼は、警察署に連行され、夜中まで取り調べを受けた上で逮捕された。取調室で一夜を明かした後、体調不良を訴え、嘔吐を繰り返したアルジュンさんは、結核の既往症があったことから、病院に連れて行かれた。結核ではないとの診断を得て、新宿警察署に勾留されたものの、記録では、食事はほとんど食べていなかったという。

翌朝、ことばの問題から状況がわからず、帰ろうとしたアルジュンさんは、留置課職員に“反抗した”とみなされ、両手首、腰、両膝、両足首を戒具で拘束され、保護房に入れられた。そして検察庁で取り調べ中、片手の手錠を外された途端、意識不明状態になり、そのまま亡くなった。

その後、明るみになった、アルジュンさんに対する留置所での処遇を知り、国(検察官)と東京都(警察官)を訴えることにした遺族を支えてきたのが、高橋 徹さんをはじめとする支援者たちだ。

アルジュンさんのお葬式を出してあげたい、葬儀に参列してもらうため、遺族のアンビカさんを日本に招聘(しょうへい)したい。そんな気持ちから始まり、4年半の歳月が流れた支援活動は、“面識のない人からかかってきた1本の電話から始まりました”と、高橋さんは話す。

▲インタビュイーの高橋 徹さん。長年、学校で教師を勤めながら在留外国人の支援活動を行ってきた

火葬される前に、遺体を引き取ってください

「“新宿でネパールの人が捕まって、取り調べ中に亡くなりました。なぜ亡くなったのか、理由はわかりません。遺族は遺体の引き取りを望んでいるのですが、どうすればよいでしょうか?”。

2017年の3月末にTさんという方から、電話でそんな相談を受けたことが、事件と出合うきっかけでした。私はまず彼に、“火葬される前にご遺体を引き取ってください。火葬されてしまったら、真相の究明はできなくなります”と、伝えました」

亡くなった人が暴行を受けていたとすれば、その証拠は遺体にしか残っていない。だから遺体がなければ何も始められない。それは、さまざまなトラブルに巻き込まれた在留外国人を、30年以上にわたって支援をしてきた高橋さんだからできた、具体的かつ重要なTさんへのアドバイスだった。

電話でTさんと話しながら、高橋さんが思い出したのは、アルジュンさん同様、警察に拘束されたのち、留置所内で亡くなったイラン人男性アリジャングさんのことだったという。

「1994年、上野公園で一斉摘発に遭ったアリジャングさんは、そのまま警察の留置所で帰らぬ人になりました。彼の配偶者は日本人で、真相究明を望んで奔走(ほんそう)し、マスコミや支援者も動いて火葬される前に遺体を引き取ることができました。

ただ、時間が経ち過ぎていたため、火葬せざるを得なかったんです。相談を受けたとき、私はこの事件を思い出しました」

▲アルジュンさんは当時39歳。いずれアンビカさんを日本に呼び寄せようとも考えていたという(撮影:神宮巨樹)

目撃者の証言がない限り、すべて正当な制圧行為になる

Tさんから連絡をもらった当初の高橋さんは、アルジュンさんの事件に関わる気にはなっていなかったという。

「アルジュンさんの死を無駄にせず、真相を究明できるとは思えなかったんです。仮にそれができたとしても、こういうケースで裁判に勝てたためしはありません。暴行している場面を見ていたという目撃者がいて、そのことが証言されない限り、すべては警察側の正当な制圧行為として処理されてしまいます。

サポートする人がどれだけいるか、彼らがどう関わろうとしているか。そういうこともよくわからなかったので、事件に関わるのは簡単なことではないですよと、Tさんには話しました」

勝てる望みの低い裁判を依頼して、あとは一任するのでは、弁護士の方々への負担が大き過ぎる。高橋さんはそう考えていたという。

それでも遺族のために葬儀をしてあげたいと、新宿警察署とやりとりを重ね、Tさんはアルジュンさんの遺体を引き取った。

同時に、遺族である妻のアンビカさんを葬儀に呼ぶために動いたのは、高橋さんと旧知の間柄で、ネパールの事情に通じ、ネパール語も堪能なAさんだった。Aさんが書類や航空券を手配して、2017年4月下旬、アンビカさんは来日した。

「私の気持ちが動いたのは、やはりアンビカさんが来日してからです。なぜアルジュンさんが亡くなったのか。アンビカさんは知りたいと望んでいたので、当時の状況を聞くために弁護士さんに依頼して、私はアンビカさんと一緒に警察に行きました。

アルジュンさんのご遺体は司法解剖されていましたが、アンビカさんと話を聞きに行った時点では、その結果は出ていなくて。警察からは結果が出たら連絡しますと、そういわれました」

▲Tさんが遺体を引き取り、アルジュンさんの葬儀が執り行われた(写真はお借りしたもの)

法医学の専門家に、あらためて検視を依頼する

自分たちサイドでも、アルジュンさんの遺体を再解剖できないだろうか。アルジュンさんの司法解剖が行われた話を聞いてそう考えた高橋さんは、弁護士に連絡を取って相談を始めた。

「Tさんたちが手を尽くしてご遺体を引き取ったのだから、こちら側でも法医学の専門家の方に再解剖をお願いできないか。そうすれば、警察側から出てくる司法解剖の結果とは違うこともわかるかもしれない、と。そこまでは、自分たちでやろうと思ったんです」

こうした高橋さんたちの取り組みを耳にした橘 真理夫弁護士から紹介されたのが、法医学の専門家の伏見良隆医師だった。東京都監察医務院の監察医だった伏見医師は、退職後に「神楽坂法医学研究所Ⅱ」を開設。所長として、法医学の相談を受けていた。

「専門知識のない素人が、警察の対応に疑問を持ち、再解剖をしてもらえないかと考えている。そのことに、伏見先生は興味を持たれたようです。

すでに司法解剖され、死後、時間が経過しているご遺体を解剖しても意味はないけれど、外表検査ならできるし、それでわかることはいろいろある、と。先生はそうおっしゃって、謝礼も受け取らずに私たちに付き合ってくださいました」

遺体と向き合い、声なき声に耳を傾ける

外表検査は二度、行われた。なぜ二度も? 不思議に思って尋ねると、その理由について、“冷凍状態で保管されていた遺体は、そのままでは検査を進めるのが難しいとわかったからです”と、高橋さんは説明を続けた。

遺体を傷つけることなく検査を進めるには、どうすればよいか。検討した末、伏見医師が提案したのがヒアルロン酸処理という方法で、高橋さんとAさんはその検査も手伝っている。

「監察医だった伏見先生は、拘禁施設内で少なからぬ不審死を見てこられているので、いろいろな死因を想定されたようです。外表検査を行った伏見先生は、拘束によって強い圧迫を受けた筋肉が、急に解放されたことでカリウムやミオグロビンが増加し、心臓にダメージを与えた、筋挫滅症候群や血栓症の可能性を示唆しています。また、死因を確定できたわけではないものの、想定される死因のいくつかは除外できたと、そうおっしゃいました。

検査を通じてご遺体と向き合い、アルジュンさんの声なき声に耳を傾けたことで、私たちのなかで、事件に取り組む気持ちが醸成されていきました」

▲Aさん(左)と高橋さん(右)。事件にまつわる大量の資料ファイルを持参くださった

遺体と向き合っただけでない。アルジュンさんの死の真相究明のため、彼の日本滞在中の医療データをすべて集めようと提案した伏見医師から、収集するべきデータの種類を伝授された弁護団は、その作業を開始。手伝う高橋さんは、アルジュンさんが在留中に診療を受けた複数の病院に足を運んでいる。

「カルテがほしいといえば、出てくるのはカルテだけで、画像など他のデータは再度、申請し直さなければならないように、医療データをすべて習得するには、相応のやり方があります。
病院に書類申請できるのは弁護士さんなので、彼らが書類を書き、委任状を持って私が取りに行く。医療データとして重要なのは亡くなる直前のものでしたが、すべてのデータということで、複数の病院に足を運びました」

弁護士さんたちは忙しいですし、取りに行くことは自分たちでもできますから。高橋さんはさらりとそう話すが、その時間や労力は、決して小さくはない。
戒具使用について、法改正後の新たなルールが警察や刑事収容施設で適応されているか。弁護団が必要とする資料収集のために、国会図書館に足を運んで関係書類を徹底的に検索する。こうした手間暇を惜しまないのは、手弁当にも関わらず、熱心に裁判に取り組む弁護団に対して、それが自分たちにできることだから、と高橋さんはいう。

いうことを聞かない=暴れた、反抗した、という解釈

被告側の訴状(準備書面)に目を通すと、アルジュンさんが暴れた、激しく抵抗したという表記が頻出していることがわかる。だが、アルジュンさんは本当に、警察がいうような態度を取ったのだろうか。

裁判が始まって間もなく、保護房の様子を記録した監視カメラの映像が開示された。2019年2月に、弁護団の事務所でこの映像を閲覧した高橋さんとAさんは、アルジュンさんが暴れているとはとても見えないと口にする。

「映像を見る限り、暴れているとはとてもいえないですね。警察官に抑え込まれているので、暴れたくても暴れようがないでしょう」と、高橋さんはいう。また、Aさんも、

「それは警察用語で、いうことを聞かない=暴れた、反抗した、ということになるのでしょう。理由はどうあれ、留置所に素直に戻ろうとしない時点で暴れた、ハンコ―(反抗)ということになる。

でも、アルジュンさんは日本語がよくわかっていないので、警察側のいうことを聞きようがなかったんです」と続ける。

▲映像にはアルジュンさんが16人の警官に取り囲まれる様子が映っていた

留置所前でのやりとりののち、保護房に入れられたアルジュンさんは、暴れたことを理由に戒具を装着され、放置された。だが、一連の映像を見ている高橋さんとAさんは、アルジュンさんが警察に抑えつけられ、戒具を装着されただけに見えたという。

「保護房のなかでも縄を解こうとして暴れ続けた、と記されていますけど、映像を見る限り、苦しくて戒具を緩めようとしていたのだと思います」

警察の留置所、刑務所、法務省入国管理局の収容所(以下、入管)……こうした密室で、被収容者は当局にどんな処遇をされているのか。それを知る上で、映像はもっとも重要な証拠のひとつになる。

だが、今、原告側に開示されている映像は、弁護士によれば、その一部に水の流れるような音が被されていて、アルジュンさんや警察側の声をほとんど聞き取れない箇所があるとのことである。

「だから監視カメラの映像は、音が被っていないものを出してほしいですね。警察官はハンディカメラで至近距離からアルジュンさんを撮影しています。この映像が開示されれば、ことばのやりとりがわかるので、それも重要な証拠になるでしょう。

第三者の目にも、アルジュンさんは暴れていると映るかどうか。今後はそこが問われるのではないかと思います」

30年以上にわたる外国人支援、その背景

これまで30年以上にわたって在留外国人の支援に携わってきた高橋さん。だが、高橋さんの外国の人たちとの関わりは、幼少期にさかのぼる。

「私が生まれ育った家は、お隣が在日コリアンの焼肉屋さん、その隣がパチンコの景品交換業をしている台湾の人が住むブロックにあって、学校のクラスメイトにも外国の人がいたんです。

小学校低学年のとき、母親に連れられて、隣のコリアンのお姉さんが朝鮮学校の文化祭で自身の体験を語るスピーチを聞きに行ったことがありました。子どもだから、お姉さんの話の内容はよくわからなかったけれど、そのときの緊張感は覚えています。

隣人である彼らと、どのように関係を持とうとしていたのか。母親は自分の行動を通じて、私に伝えようとしたのでしょう」

▲高橋さんの支援活動は、1987年、日本三大寄せ場のひとつ、横浜の寿町で、外国からの移住労働者や外国籍の人たちの人権を守るために立ち上げたカラバオの会から始まったという

高橋さんは1990年代前半から、入管問題にも関わっている。

「当時、入管内で職員による被収容者への暴行事件が起きていたんです。ちょうど私の勤務していた学校に、卒業後、入管の職員になった生徒がいたので、その子がどうしているか、担任だった教師に尋ねたら、“3カ月で仕事をやめてしまった”といわれて。それで連絡先を教えてもらって、彼に話を聞きました。

“先生、僕、人を殴る音を初めて聞きました”。それが、電話で開口一番、彼が私にいったことばでした。こうした被収容者への制圧行為に耐えられず、彼は入管をやめたのでしょう」

当局が、人権侵害を認めることはまずない

事件後、連絡を受けた高橋さんとAさんは、生前のアルジュンさんと面識があったわけではない。警察に拘束され、死に至るまで、何があったのか。

ふたりはアルジュンさんの足跡をたどろうと、亡くなる直前、彼が食事をしていた東京・大久保のレストランや、解雇される前に料理人として働いていた埼玉県のネパール料理店へと足を運んでいる。

「とにかく働いていたお店に行ってみよう、と。そこでアルジュンさんを知っている人たちに話を聞きました。いつまでこの店で働いていたとか、お店を離れるいきさつを聞けたくらいで、事件につながるようなことは特に感じませんでしたが。

お店はその後、潰れて、別の経営者の手に移っているのですが、足を運んだことで、お店が続かなかった理由はわかりました」

1997年に起きた「東電OL殺人事件」の冤罪(えんざい)被害者ゴビンダ・マイナリさんの支援に関わった高橋さんとAさんは、ゴビンダさんの冤罪事件が勝利した稀(まれ)な例であること、解決までに膨大な時間と労力をかけたこと、当局が拘禁施設内の人権侵害を認めることはまずないことを、身をもって経験している。

「正義感から動いても、裁判で勝てるかどうかはわかりません。でも、自分たちが何もしなければ、今まで表に出なかった事件は忘れ去られ、これから起きるかもしれない被害は続くことになります。勝ち負けとは関係なく、自分たちの努力を残しておくことは大事だと思っています」

長い活動経験ゆえの複雑な心境を、ふたりはそう口にする。

それでも相談を受けたその流れで支援をするに至った感じですね、と高橋さんはいう。

「やはり私にとって大きいのは、アンビカさんの存在です。“アルジュンはなぜ死んだのか。その原因を知りたい”と、アンビカさんはいい続けている。そのことに応えたいとは思います」

▲原告のアンビカさん(写真はお借りしたもの)

行政書類を集める際、日本とは比較にならないほど手がかかるネパールから必要書類を取り寄せ、それを翻訳するなど、煩雑な作業をしてきたAさんも、

「弁護士さんをはじめ、みなさん手弁当で動いてくださっているのに自分だけ逃げだすわけにはいかないですよね」と話す。

裁判が終わるたびに、アンビカさんに次回の口頭弁論の日にちを報告しているAさんは、こう続けた。

「毎回、口頭弁論の日になると、アンビカさんは必ず連絡してくるんですよ。“Aさん、元気ですか?”って。裁判はどうだったか、自分から聞いてくるわけではないので、こちらから、“今日、裁判所で口頭弁論があって、こんな話が出ましたよ”と、簡単に説明すると、“私には詳しいことはわかりませんけど、よろしくお願いします”と。律義だなと、思います」

密室での行き過ぎた制圧を止めるためには

アルジュンさんは狭い保護房で、16人の警察官に取り囲まれた。自分に怒声を浴びせる彼らの形相に、アルジュンさんは恐怖心を募らせていたことだろう。

警察は、なぜあのように被収容者を威嚇するのか。もし彼らが、留置所ではこうした処遇が普通だというのであれば、その普通という状況は変えてゆくべきことではないか。

「留置所も、入管の収容施設も密室です。そこで何が起きているか。調べるのは難しいことです」と、高橋さんはいう。

高橋さんたちが信頼を寄せていた伏見医師は、2020年に急逝された。留置所で亡くなった方の監察を何体も行った伏見医師は、“被収容者たちがどんな処遇を受けていたのか、警察の説明や遺体の様子を見ればわかるんですよ”と、生前、話していたという。

たしかにアルジュンさんは、日本の社会では不安定な地位に置かれた外国人だった。だが、伏見医師によれば、日本人でも、警察で命を落としている人は少なくない。

映像は、誰に忖度することなく、事実を記録している。弁護団や高橋さんたちが望んでいる、監視カメラよりも近くからアルジュンさんを映し、彼らの声を拾っているハンディカメラの映像を、被告側にはきちんと開示してもらいたいと思う。

アルジュンさんの死や、入管の収容所で起きている被収容者の死が闇に葬り去られてしまったら。当局側は、こうした事件に関心を持つ市民は少数派に過ぎず、権力に抗することなどないという考えをますます強めるのではないか。

人権侵害という暴力を見逃し続けるうちに、いつかどこかで、わたしたちの身に、同じことが起こる可能性はゼロとはいえない。直接的な暴力に至っていなくても、日本やその他、先進国で問題となっている監視社会化など、わたしたちに対する人権侵害は、現に起きつつあるのかもしれない。

密室での行き過ぎた制圧を止めるためには、市民がこうした事件の行方を注視し、制度の改革を求めることが、必要なのではないだろうか。

▲ふたりは出会って約20年。ともに活動してきた同志の会話は尽きない

取材・文/塚田恭子(Kyoko Tsukada)
撮影/保田敬介(Keisuke Yasuda)
編集/丸山央里絵(Orie Maruyama)