いつから海はみんなのものじゃなくなったのか?
ブルデ恵さんと沖縄海岸国定公園訴訟を巡るストーリー
ある日、CALL4のサイトに取材の依頼が舞い込んだ。依頼主は、沖縄県を相手に訴訟を起こしている原告だという。場所は沖縄本島北部の恩納村だった。
取材に行くことになった私は、直撃する台風のニュースを見ながら、「海の青さに空の青」で始まる沖縄民謡『芭蕉布』を聞いていた。この曲は、沖縄の織物「芭蕉布」の技術が失われつつあった60年代に作られた曲らしい。
海の青も空の青も今回は望めないだろうなぁと思いながら、私自身の「沖縄」の記憶を引っかきまわして取材の準備をした。
沖縄西岸の記憶
2003年に初めて沖縄に行ったとき、本島の西岸の、名前も知らないビーチで、強い日差しに首筋をじりじりと焼かれながら泳いだ。ときは6月の頭、梅雨明けを祝うハーレーの祭りを見ようと南部の糸満に出かけた。
夜になると満天の星空の下、これもまたどこだったか憶えていない海辺で、Tシャツのまま海に入った。そこで無数の夜光虫をみた。星くずをそのまま海へ引いてきたような光の中で、息をするのも忘れてバシャバシャと水をかいた。
現地の人と一緒に、沖縄民謡『谷茶前節(たんちゃめぶし)』を踊った。「ナンチャマシマシ、デアングヮソイソイ」の調子をずっと聞いていたくて、何度もリクエストをかけた。
琉球時代から伝わるといわれるこの民謡が、恩納村の沖、『谷茶前』のあたりで採れる魚と魚売りのことを歌っていたのだと、当時の私は知る由もなかった。歌われているのはスルル(キビナゴ)やミズンといったニシン科の魚で、水のきれいな沿岸域に生息しているのだという。
ここで歌われる本島の中部から北へかけての西海岸全体は、アメリカ統治下の60年代から「沖縄海岸国定公園」に指定されている。
さらにその中でも『谷茶前』にほど近い、「名護市字喜瀬」や「恩納村字名嘉真(仲間)地先」の海面は、沖縄県によって「海域公園地区」に指定されている。「稀少なサンゴ、色彩豊かな魚類が豊富に生息している」と沖縄県は唱え、そこでの動植物の採取・捕獲を制限する。キビナゴやミズンはまだ入っていなかったが、動植物の種類は40種近くにわたっていた。
そんな場所が、今回の取材先だった。
国道58号線に作られたリゾートホテルの壁
「この国定公園の内部に、大型リゾートホテルが建設されています」
那覇空港に着陸した私に、依頼主である訴訟原告のブルデ恵さんが言った。
「私はそのすぐ前に住む住民。リゾートホテルの認可を下した沖縄県に対して、認可の取り消しを求める訴訟を起こしています」
沖縄の台風は小康状態。海の青はなく、飛行機の窓からは白い雲の中で攪拌(かくはん)された雨粒だけが見えた。車へ乗り込むとき、湿度100%、亜熱帯のぬるい雨が肌にまとわりついてきた。
「私は味方を作りたい。そう思って取材の依頼をしました」とブルデさん。
「この訴訟の原告は私ひとり。なくなっていくものに対して、声をあげることが、この島では大変すぎる」
ブルデさんの夫のクリストフさんが車を運転してくれた。海岸沿いの国道58号線にさしかかると、白くのっぺりとつづく一棟の大型ホテルが見える。海は見えない。車を降りると、ぽたぽたとこぼれる小雨にまざって、かすかに潮のにおいがした。
「この建物の向こうにインブビーチがあります。でも海なんて1ミリも見えないでしょ?海岸線1.7㎞にわたって、客室360室のこのホテルがぴったりと壁のように覆っているから」
「私たちの家は、この国道の内側、伊武部 希望ヶ丘地区と呼ばれる中にあります」
開発によって何が奪われるか
希望が丘地区に住むブルデさんは、急いで、リゾート開発の認可を下した沖縄県に対して不服を申し立てる審査請求をした。同じ地域に住む5人が審査請求に加わった。
「私たち住民は、海岸線に住んでいたはずなのに、海を臨むこともできなくなってしまった。はじめはそのことに―うちの前に壁ができて、海辺の景観と、泳ぎに行く場所が失われたことに対して憤っていました。でも調べていくうちに、問題はそれだけではないと分かった」
「今、破壊されているのは国定公園の海岸線です。こうしてリゾート開発を許すことによって、海が汚れ、島の生態系が影響を受ける。そして住民は海へのアクセスをなくす。私たちは、たくさんのものを奪われる真っただ中にいたんです」ブルデさんはいう。
「リゾート開発の認可は、国定公園の保護を定めている自然公園法に違反しているのではないか。そう思って、調べれば調べるほど、『沖縄海岸国定公園』は危機に瀕していたんです」
語っているうちに車はオフィスへ着いた。オフィスには、ブルデさんの同僚や支援者が待っていた。
住民は海をなくし、海はサンゴをなくす
その一人、沖縄生まれ沖縄育ちの女性が、「昔は、この海岸だけじゃなくて、沖縄の海はみんなのものでした」と、ブルデさんの話を引き取って話してくれた。
「私の母の幼少時代―まだアメリカだった60年代、沖縄では誰もがどこのビーチにも行けた。地元の人たちは日常的にビーチで過ごしていたそうです」
「返還後も、ビーチは市町村が管理していて、変わらずにみんなが行ける場所だった。私が小さかった80~90年代も、まだ海にふらっと泳ぎに行っていた記憶があります」
「そのうちに、市町村が管理していたビーチが島のあちこちで閉鎖されて、一般の人たちには立ち入り禁止になった。しばらくすると、そこにリゾート開発が始まる。気づくと、きれいなビーチの多くは誰かの私有地になっていました」
「そんなことを、沖縄にずっといた私も知らなかったんです」彼女は続ける。
「リゾート開発で失われるもののニュースは流れない。海に赤土が入ってサンゴが死んでも、ニュースにならない」
サンゴへの影響については、沖縄県の『生物生息状況調査』を通じた調査が沖縄全体で行われており、県内のいくつかの場所に「汚染域」の警告が出されているものの、『谷茶前節』で歌われる魚たちのすみか、西海岸全体への影響は判然とはしなかった。
「私は沖縄で育ってきたので、あれ?って思います。いつから海はみんなのものじゃなくなったのかな?って」
「みんな知らないか、知らないふりをしてる。気づくと、魚だけじゃなくて人間も―地元の私たちが入れるビーチも少なくなってしまった。今回訴訟になっているインブビーチも、今までずっと県民に開放されていたけど、今はもう入れない。私たち住民はリゾートホテルのために海をあきらめてしまったんです」
住民たちの葛藤
ホテルの着工を受けて審査請求をした当初は、「住民を無視したリゾート開発認可は許されない」と多くの住民が憤っていたという。しかしブルデさんが審査請求の結果を見込んで、県を相手に「認可の取り消しを求める訴訟」を起こすと、事態は一変した。
「声をあげようとしていた仲間が、一緒にできないと言い始めました。『審査請求で異議を申し立てるまではいいけど、訴訟までして県や大規模リゾートホテルと対立するのはいやだ』というんです。仲間はひとり減り、ふたり減り、提訴したときには原告は私ひとりになっていました」ブルデさんは振り返る。
「憤っていても声をあげられない人たちもいる。そもそも奪われることに対して無感覚になっている人たちもいる。無感覚であることを長年強いられてきたせいかもしれない」
リゾート開発に対する地元の反応は複雑だという。
「訴訟を起こすとき、よく『県や大規模リゾートホテルに逆らうと、私たちの仕事がなくなるからやめなよ』と言われました。『地域にお金を落としてくれないと困るでしょう』って」
「経済的な側面は大きい。地域のつながりの中で仕事をして、生活をしている人たちにとっては、県やホテル事業者を相手にするのは怖いですよね」
「地元の人たちは、自分たちがどういう生活を望むのかを、考える余裕も奪われてしまっているように見えます。弁護士だって、県内で引き受けてくれたのは喜多弁護士だけだった」
ひとりでも声をあげる
「私たちは移住者だし、しがらみの少ない仕事をしているので、声をあげることが比較的容易だった。それでもここまでくるのは大変だった」
東京のIT企業で働いていたブルデさんが「当時3歳だった長男の子育てを自然の中でのびのびしたくて」、映像制作会社を営むフランス出身の夫クリストフさんと共に沖縄に移住したのは2012年のことだった。
県内で就職したブルデさんだが、数年働くうちに、勤め先でハラスメントなどのトラブルに巻き込まれる。
「様々な問題が起こる中で、後輩の女性社員が上司からの性被害に遭っていたということも分かった。泣き寝入りしていた彼女に代わって会社を糾弾すると、それが最後の一押しとなって懲戒解雇を言い渡されたんです」
ブルデさんは懲戒解雇に対して、「訴訟をするほかにキャリアと名誉を回復する方法がない」と、初めての訴訟に踏み切る。
「自分の訴訟をしながら、後輩社員が訴訟を起こすサポートもした。彼女が人生を取り戻すにも訴訟という方法しかなかったから」
ブルデさんの訴訟は実質勝訴で和解決着したが、ブルデさんはそのときに「訴訟は、自分を尊重してもらうために声をあげる、大事な方法だと学んだ」という。「それが今回の件にもつながっています」
とどまって価値を守ることの意味
「でも、声をあげる方法はほかにもあると思っています」
希望が丘地域の自治会会長でもあるブルデさんは、「安心してここに住みたいという、地域の人たちの気持ちをどうやって達成していくかを、自治会活動を通じて考えている最中です」という。
地域の開発の問題に取り組む中で、2018年9月には村議会選挙にも出馬した。
「自分自身が行政の側に行くことで、問題意識を知ってもらえるかもしれないと思った。結果は落選でしたが、選挙をきっかけにさまざまな相談や支援が来るようになりました。弱い立場で悩んでいる人たち、ひとり親家庭の人から相談が来たり、環境活動に取り組む人たちから応援の声が来たり…最近はいろいろな人から連絡が来ます」
「今回の訴訟を起こすとき、嫌なら引っ越せばいいんじゃない?って、いろいろな人に言われました。でも、次の場所に行ってもまた同じ問題が起こるかもしれない。結局、問題が起こったときにどうやって自分たちの価値を守るかが大事で、それは場所を変えてもついてくる」
「ここで守りたい価値はいろいろある。海、海岸、海とともにある私たち地域の暮らし。そして地域の暮らしが尊重されるということ。今回の訴訟も、『自分(たち)を尊重する』の延長なんです」
「私はこの場所を出ていくのではなく、変える努力をしたい。そして、地域の人たちと一緒に、自分たちは何を守り、どういう生活を望むかを、考えていきたいと思っています」
国定公園の問題を身近に感じてほしい
「希望もあります。私が訴訟を始めてから、西海岸にリゾート開発の認可は一件も下りていないんです。国定公園って、本来は『この自然は守られる』というお墨付きを国が与えた場所。今回の訴訟が、県にとっても立ち止まるきっかけになっているのかもしれない」
一方で、問題となっているリゾートは2019年7月26日にオープンした。
「訴訟になっていることもおかまいなし。悔しいですよね。この場所が争われていること自体も一般には知られていない」とブルデさん。
「一般の人たちにとって、国定公園の問題は遠いんですよね。国定公園の訴訟は日本でもほとんど例がないらしいです。国定公園は全国に56か所もあるのに、守る組織もない」
ブルデさんは訴訟と並行して、沖縄の西海岸を守る活動(west coast connection)を始めた。
「私がこれから目指すのは、国定公園を守る取り組みは特別なことじゃないと知ってもらうこと。そして、奪われるがままだった地元の人たちが『自分たちの生きていく場所を守ってもいいんだ』と思えるようになってほしいんです」
本当はひとりではない
その夜、ブルデさん一家や会社スタッフ、訴訟をサポートする人たちと一緒に、北谷のアメリカンビレッジ でごはんを食べた。アメリカンビレッジに向かう道すがら、夜の闇は深く、空はペンキで塗りこめられたような濃い黒だった。私はそれが、天気のせいだけでないという気がした。海はまだ見ていない。
「恵さんの前職の会社で性被害に遭ったのは私なんです」
オフィスで沖縄の50年を語ってくれた女性とピザをシェアしていると、彼女は自分の体験を話してくれた。
「被害に遭ってからずっと、地獄の日々でした。誰にも打ち明けられず、逃げることもできなかった。未来なんてなくて、ただ自分を殺しながら毎日、生きていました」
「恵さんとクリストフさん夫婦が、当事者以外で初めて打ち明けた人、そして初めて私に『それはおかしいことだよ』と言ってくれた人でした。ふたりがいなかったら、私は今もずっと、あの地獄にいた…。訴訟を通じて立ち向かおうと思えるまで4年がかかりました」
彼女の声はふるえていた。
「今回、私も恵さんの訴訟を応援する中で、CALL4のサイトに行き当たりました。それで、取材を頼んでみたらどうかと恵さんに提案したんです」
「おかしい」と声をあげるひとつの勇気が、次の勇気につながるのだと、すでにある変化が新たな変化を呼んでいるのだと、私はそのとき知った。彼女にとってブルデさん夫婦が最初の味方だったように、ブルデさんの今回の訴訟にも、すでに味方はいたのだ。
海の記憶が僕の島の記憶
ごはんを終えて外に出ると、夜の雨がぽつぽつと頬を打った。風はなかった。「南の風に緑葉の」とうたう『芭蕉布』が私の中にまた流れて、南風と緑葉の不在を感じさせた。芭蕉布は夏の季語らしいが、この夜に夏はなく、私は布についた「沖縄のにおい」もわからない。
海から青が失われるのと同時に、民謡からはにおいが奪われていく。沖縄民謡がただ風景の不在を歌う未来も遠くないのかもしれない。
ずっと昔、満点の星空がキラキラと夜光虫の泳ぐ海とつながっていたように、今ではこの夜の空ののっぺりとした黒が、変わっていく沖縄の海の中を映し出しているように思えた。サンゴがいなくなって、夜光虫がいない海、夜光虫を食べるキビナゴやミズンがいない海の中を。
翌日、空港へ向かう道すがら、車の中ではブルデさんの子供たちがゲームをしている。私は隣に座った10歳の長男氏のスマホをのぞき込みながら、「ねえ、裁判をしてるママとサポートするパパをどう思う?」と聞いてみた。
「誇りに思ってる」彼は即答した。それから「でもそのせいでふたりとも忙しくて、僕や弟といっしょに過ごす時間が減ってる」と付け加えた。「今年はまだ海にも泳ぎに行けてないんだよ」
3歳で沖縄に越してきた長男氏は、自分には沖縄の記憶しかないという。彼の沖縄は、海と、空の中にある。「我した島沖縄(うちなー)」が、彼の大人になるころにもなくなっていないように。そんなことを思う。
取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
編集/杜多真衣(Mai Toda)