目に見える爪痕、目に見えない爪痕

2019.8.12

高橋敏明さんと鬼怒川大水害国家賠償訴訟のストーリー

「水害って、じわじわと被害が来るんです。家は応急で修理しても、壁の中にカビが生えていて、しばらくしてぜんそくになったりする。体を悪くする人は多かった」

「赤羽さんの奥さんのように水害後ほどなくして亡くなった方もいれば、1年以上経って亡くなった方もいる。被害後の救援制度も不十分だったから、現状を悲観して、悲しい亡くなり方をした方もいます。

被害として見えにくいけれど、3年経った今もまだ苦しい思いをしている」 「関連死は認定では12人となっているけれども、本当はもっといる。苦しくて、関連死の申請すらできない人もいたのを私たちは知っています」

鬼怒川沿いで「鬼怒川大水害」を語ってくれた人びと

2015年9月の「鬼怒川大水害」をめぐり、国家賠償を求める訴訟が起こされている。私たち取材陣に対して水害の説明をしてくれたのは、訴訟原告団の共同代表をつとめる片倉一美(かたくらかずみ)さん、水害の被害者を支援する染谷修司(そめやしゅうじ)さん。

私たちは、片倉さんの案内で、水害によって奥さんを亡くした赤羽武義(あかばねたけよし)さんの話を聞いた後、今度は一夜で花き園芸会社の資産を失った高橋敏明(たかはしとしあき)さんの話を聞きに行くことになっていた。高橋さんもまた、原告団の共同代表のひとりだ。

見渡すかぎり、のどかな田園風景の中に住宅が連なり、川沿いには春を待つ菜の花が咲き始めている。私たちは鬼怒川をさかのぼりながら水害の跡を探したが、今はもう、3年前の爪痕は残っていないように見えた。途中、車を停めて当時の様子を教えてくれる片倉さん。

「ここ一帯が、すべて水没しました」、「あの建物も」「この道路も」「あのガスタンクも」という説明にあらためて驚くも、目の前に広がるあまりに普通の光景に、私はまだ当時の状況をうまく想像できずにいた。

途中、三坂の決壊した堤防跡は車も通れるほど広い堤防に石碑が建っていた。「こんなに大きな堤防を簡単に作れるんなら、なんであのときに簡単な補修もしてくれなかったのかな」と、傍らの片倉さんがつぶやく。

「私たちが求めていたことは、危険な川岸や堤防のほころびを補修することで、そんなに大きなことではなかったのに」ピカピカの堤防の存在は、翻って水害の跡なのかもしれなかった。

鬼怒川に掛かる豊水橋付近には江戸時代の豪商の蔵があり、鬼怒川が水運の要だったころの繁栄の跡が垣間見えた。川のもたらす功罪に日常的に向き合ってきた若宮戸の自然堤防地域の言い伝えには、「川辺の草一本、砂ひとつ、持ち出してはいけない」というものもあった。「自然の草木や砂山が水を食い止めてくれていたから」だという。

若宮戸で被害に遭った高橋さん

高橋さんの住むのはこの水害の始まりの場所であった若宮戸(わかみやど)地区。私たちは高橋さんの花き園芸会社の事務所で、水害の話を聞き始めた。

「私の父の代は水稲を中心とした一般農家だったのですが、私の代になってから、実家の田畑を活用して花き栽培を始めました。農家の長男坊として考えるところもあったのですが、同じように農家の長男で実家を継いだ幼なじみと悩みを相談しあったりして決めた。これからは花が必要とされる時代がやってくると思って」

「始めたのは、45年前、20歳のとき。最初は300坪くらい、3棟から。簡単な鉄骨のビニールハウスでした」

3棟の温室からスタートした高橋さんだが、徐々に施設を充実させていった。途中、法人化を経て、花の生産だけでなく販売や加工も始め、温室の数は16棟になった。

「わりあい順調に来たほうじゃないかなとは私なりには思ってます。後継者も育った。長女が跡を継ぐことを決めてくれて、次女・三女も手伝ってくれてます。ずっと一緒にやってきた社員が10人いるし、新入社員もとり始めた。経営も軌道に乗ってきたな、というときでした。あの水害が起こったのは」

9月10日に何が起こったか

「あの日は朝の7時くらいかな、危ないという情報が入った」高橋さんは9月10日のことを振り返る。

朝6時、前日からの豪雨を受けて最初に水があふれたのが、常総北部の若宮戸(わかみやど)地区だと、片倉さんが水害の全体像を説明してくれる。

「水が出たのは堤防がない場所だった。ここは昔から自然の堤防の役割を果たしていた砂丘林が掘削されて、住民がずっと対策を求めていたけれどもほとんど放置されていたところでした」

12時50分、若宮戸から5kmほど下った上三坂(かみみさか)地区の堤防が決壊する。「この堤防は、高さも幅も足りなくて危険だった。こちらも住民はずっと指摘していた」

そのまま洪水は下って水海道(みつかいどう)地区まで達する。鬼怒川と交わる八間堀川も氾濫した。

「ふたつの川の交わるところに排水機場があったのだけど、そのときに排水機場を運転させて八間堀川の排水をすれば、町に流れ込む水をある程度食い止めることができた。でも川を管理する国土交通省がそれをしなかったために、洪水をバイパスしていた八間堀川も氾濫して、町は完全に水浸しになってしまいました」

片倉さんと高橋さんが地図を示しながら、かわるがわる説明してくれた。こうして2015年9月10日、鬼怒川の水は川を下り、常総市全体を浸していった。

ビニールハウスは全滅

「若宮戸では、比較的早い段階で避難指示が出ました。近くの小学校まで水が押し寄せているという情報も朝の7時くらいに入っていた。でも、あのときはまさか、こんな大水害になるとは思わなかった…」

「川の近くに住む娘たちからすぐに連絡が来て、東側にある地域交流センターに避難した、ということだった。本当は、川を渡った向こう側、西岸のほうが地盤が高いので安全だと言っていたのだけど、行けなかった。娘たちは川の水があふれているのを見て、怖くて対岸へ橋を渡れなかったというんです」

「私も娘たちがいる地域交流センターへ避難しました。そうしたら避難所まわりに水が押し寄せてきた。あっという間に私たちは孤立してしまった。車も水没したし、まる一日、救援物資も届かないまま。かろうじて飲み水だけ届けられたというくらいでした」

「でもあのときは最悪の可能性も考えていたから、『命があっただけよかった』と思っていました」

「一夜明けて、翌日の昼ごろになって、やっとまわりの水が引き始めて脱出できた。いたるところで道路が崩れたり冠水したりしていて、とても通れる状況じゃなかったけれど、それをあちこち回避して、娘たちの家に寄り、そのあとここに来た。ネットで状況を見ていたから、覚悟はしていました」

「植物はあとかたもなく流されてしまっていた。ビニールハウスも泥水に浸かって、俗にいう修羅場という感じ。見るも無残だった。覚悟していたものの、私はここに茫然と立ち尽くすばかりでした」

16棟あった温室と店舗のすべてが1mの泥水に浸かった。花、観葉植物の苗、鉢物、合わせて10万株がほぼ流失し、流失しなかったものも泥水で枯れた。設備器具も水没し、被害額は5000万円を超えた。

再建の3年間

「あの晩は落ち込んだね。再建は無理だろうと思いました」

「でもそのあと、娘と話し合って、娘の励ましもあったりして、なんとか頑張らなきゃという気持ちがわいてきた。生産からだと45年、せっかくここまでやってきたのに、このままあきらめるのもなんだろう、と思った。幸運なことに、ついてきてくれる社員もいました」

そこから再建の3年間が始まる。

「まずは泥出し、清掃、後片付け、処分、そんなことから始めた。それが何ヵ月もつづいた。泥出しは苦しかった。悪臭がすごくて、不衛生極まりない。精神的にも落ち込むし、肉体的にもね、あまりに不衛生で、体調を崩してしまう」

「お花がかわいそうでした。花というのは売れるようになるまでに何年もかかる。だから、手塩にかけて育ててきた花を出荷するときは、娘を嫁に出すような気持ちになる。それが一瞬にしてなくなってしまうわけ。なんといっていいか…辛かったですよ」

「経営者としても苦しかったですね。少ない蓄えを切り崩しながら、なんとかつないでいく毎日。でもどれほどつらくても、こんな状況の中でついてきてくれた社員の前では落胆している表情を見せられない。苦しいといえない苦しさがあった。あれは言葉では言い表せないです」

「3年間、苦しかった。家族や従業員、のべ1,000人のボランティアの方たちに支えられてなんとかここまで戻ってきたけれど、自分だけではとても無理でした」

たくさんの喪失

しかし高橋さんが苦しかったのは、花き園芸会社の再建だけではなかった。

「さきほど、農家の長男坊同士、いろんな悩みも打ち明けあった幼なじみの話をしましたけど、彼のところも被害を受けたんです」

「あいつの家は代々続く大きな農家でね。私たちは小学校、中学、農業高校とずっと同じクラスだった。大人になってからも、地域の青年部とか消防団に一緒に所属して、何年も一緒にやってきた。穏やかな性格で、誰からも好かれるスポーツマンでした」

「彼のところも水害に遭って機械も施設も全滅した。再建しようとしても、補助金で賄えない分は借金しないといけない。とても無理だと判断して、彼は離農しました」

「彼はそれをずっと悔やんでいた。昔から引き継いできた大きな農家を守れなかった、先祖に申し訳ないって。私もあいつが悩んでいたことはわかっていたけど、どう言葉をかければいいか分からなかった。借金してまで再建しろとは言えなかった」

「彼は水害から1年後に亡くなりました。精神的に落ち込んでいたのが体にも影響したのだと思う。遺族には関連死の申請をしたらという話もしたけれど、できなかったみたいだ。苦しくて申請ができなかった遺族はほかにもいると聞きます」 高橋さんが失ったものは会社の資産ばかりではなかった。亡くなった幼なじみの家は、自然の堤防が掘削されて水があふれ出た土手の、すぐ裏にあった。

土手にのぼると

私たちは川辺に足を運んだ。

とにかく風が強かった。土手に上ると、川から吹き付ける西風が私たちのほほをしたたか打つ。砂粒まじりの風が痛くて、冷たくて、鼻の奥がちりちりという。見下ろすと、防砂林となっている林がカリッと不自然に途切れているような場所が見えた。

「ここ若宮戸の沿岸部は、ずっと昔から、砂丘林が自然の堤防の役割を果たして私達を守ってくれていました。その砂丘林は民有地でしたが、ところが国はそこを河川地域に指定することなく放置した為にが、民間業者による掘削を止められず認めて、堤防のない状態にしてしまった」と高橋さんが衛星写真を見せながら説明してくれる。

「こんな大きな川なのに、堤防がないなんて考えられないですよね。草一本持ち出してはいけないと代々言い伝えもあったような場所です」

「危ないのは誰の目から見ても明らかだった。このままだと水位が上がったらすぐに町に水が入ってしまうと住民は指摘して、鬼怒川を管理する国土交通省に何度も対策を頼んでいた。でも国交省がとった対応といえば、80cm程度の大型土のうをロープでくくりもせずに、2段並べただけ。無堤防状態は放置されたままだった」

掘削されてから1年が経ったころ、水害のきっかけとなる豪雨が降った。あっという間に沿岸は、住民の危惧していたとおりになってしまった。

誰も声を上げないと何も変わらない

「地元の人間からすると、沿岸の昔の様子も知っているし、国の管理に問題があったことは明らかです。私も無堤防状態になったことを地元のお客さんから聞いてすぐに知った。日常生活の中で知るくらい、あそこの問題を私たちは水害前から認識して、対応を求めていた。だから、水害が起こったときも、あの場所だろうと私たちはすぐ分かった」

ほかの氾濫地点とちがって、ここは地形が分かりやすい。上から見ると、土のうがバラバラになって川の水が勢いよく町に流れ込む様子が容易に想像できた。

「私は水害の起こったときから一貫して、あれは人災だったと思っています。国が放置した責任を問われないのはおかしいと思う。水害から3年が経って、国を相手に訴訟をしても勝てるわけないという反応もあった。それでも、国の責任を明らかにしたいという私の信念は変わりませんでした」高橋さんはきっぱりと言う。

「この問題は鬼怒川だけの問題じゃないんです」と傍らの片倉さんも言葉を添える。「岡山県倉敷市で起こった洪水も同じです。日本中で危険な堤防が放置されている。国の治水事業には巨額の予算がついているのに、堤防の補修はずっと軽視されてきた。河川行政のおかしさを感じます」

「河川流域の住民にとっては、明日は我が身なんです。誰も声を上げないと、何も変わらない。だから私たちは声を上げたんです」高橋さんと片倉さんは声をそろえる。

庭の芝桜

「あいつも、生きてればおれと一緒に裁判やったんじゃないかなーとも思うんです。彼の分も頑張ろうという気持ちが私にはあります」と高橋さん。

土手から下りると、高橋さんの亡くなった幼なじみの家に行き当たった。川から吹きおろす強い西風が、庭の土もめくりあげる。

「もともとここは庭と土手がつながっていて、私たちも昔はターザンごっこなんかして遊んでた」

遺族にあいさつをしたとき、「高橋くんはずっと仲良かったもんね」と言われた高橋さんはさみしそうに答えた。「うん。死ぬまで一緒だと思っていた。あの水害がなければね」

高橋さんが幼なじみを亡くす少し前のこと。

「彼の家は川のすぐ裏手にあるから、穴の開いた自然堤防が家から見えてしまう。彼は庭に盛り土をして、土の塀を作りたいと言っていた。風よけもあるけど、気持ち的にも見たくなかったんじゃないかな。でも、ただ土を積むだけだと風で崩れてしまうから何か植えたいという相談を受けました」

「根が張って表面を覆いつくすものがいいんじゃない、と私は言いました。春には花も咲くから芝桜はどうかと提案したら、じゃあそうしてもらおうかと彼も言って、うちの会社で庭の裏手に芝桜を植えました」

丘のうえには、芝桜がぽつりぽつりと白やピンクの花を咲かせ始めていた。削り取られた土の中に、必死で根を張っているのだろう。春を告げる花の色に、心が締め付けられた。

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)
編集/杜多真衣(Mai Toda)