レインボー柄を隠して傍聴するよう命じた裁判長。裁判空間はいったい、だれのもの?
2025.12.6
理由ない服装制限の違法性を問う、原告の鈴木さんと加藤弁護士のストーリー
裁判所に行ったことはありますか? と聞くと、圧倒的にNoの答えが多い。
「だって、関わらないに越したことないでしょ」
裁判所は怖いところという認識は根強いらしい。
珍しく興味を持ってくれる人たちからは、「裁判所に行くときはどういう格好をしていけばいいの?」と聞かれる。やはり裁判所にはフォーマルな格好が必要と思わせる何かがあるようだ。「普通の格好で大丈夫なはず」と私は答えていた。この訴訟を知るまでは。
ファミリーマートで買ったレインボー柄の靴下で法廷に入ろうとしたら、「通せんぼ」された鈴木さんの話。裁判の休憩時間に、それまで法廷でずっと着けていた2ミリの文字が刻まれたバッジを外してくれと要求された小川弁護士の話。裁判官の目にも入らないパーカーの背中にプリントされたFree Hakamadaの「Hakamada」部分にガムテープを貼られた清水さんの話。
「一体なんのためなんでしょう?」、聞いてみると、「いずれのときも、服装規制の理由は説明されていません」、鈴木さんたちは説明する。
「その程度のこと?」と思うだろうか?「靴下くらい、バッジくらい、外せばいいじゃん?」と思うだろうか?「傍聴させてもらっているんだから従いなよ」と思うだろうか?
たかが靴下、しょせん傍聴、と思うとき、私たちは何かを見逃していないだろうか。
日本では、権力構造は法のもとで運用されている、ことになっている。裁判所は裁判所法のもとで。その中で裁判所法は、法廷の秩序維持をめぐって、「職務の執行を妨げ」る者、「不当な行状—法廷において一般に守られるべき節度を欠く行い―」をする者への対応を規定している。たとえば酩酊していたり、法廷内で飲食・喫煙をしたり、異様な服装をする者、暴言・暴行をする者とされている。
「では本件では、靴下やバッジの着用が職務の執行を妨げたり、不当な行状に当たったりしたか? 服装規制の根拠は示されず、何の説明もありませんでした」と、弁護団の加藤雄太郎弁護士。
申入書を差し入れても、裁判所の服装制限は是正されなかった。
「違法かどうかの判断ができる裁判所に訴えるしかない。そうしないと一般の人が裁判所に行きづらくなる。裁判は公開されているべきなのに、裁判所に行く人たちに委縮効果をもたらしてしまう」
鈴木さんたち原告は国家賠償訴訟に踏み切った。

裁判の公開がなぜ重要か?―裁判官の仕事ぶりをライブで見る意味
「裁判長の声は震えていた。この判決の重みが感じられた。これは、あとから文字で判決文を読むのとは別の情報です」
法学者の鈴木 賢さんは、2024年3月に札幌地裁で「結婚の自由をすべての人に」訴訟(同性婚訴訟)の判決期日を傍聴したときのことを話す。各地で提起されている訴訟に初めて違憲判決が下された期日だった。
「裁判長の表情、声の様子、傍聴人の反応。こういう情報を現場で見聞きすることは、裁判を考えるうえでも、裁判官の仕事を見るうえでもとても重要な要素です」
しかし同年6月の福岡地裁の判決期日では、法廷に入る際に制限が課せられた。法廷の前に裁判所職員がガムテープとマスクの入った箱を手に立っており、レインボー柄を外すかまたは隠すかを要求して立ちはだかった。短パンにファミリーマートで買ったレインボー柄の靴下を履いていた鈴木さんは、入ろうとすれば物理的接触が生じかねない状況で、レインボー柄を隠すか、傍聴をあきらめるかの二者択一を迫られた。
それから10か月後、静岡では袴田事件の審理が行われていた。しばらくつつがなく審理が進んだのち、弁護団の一人は休憩時間に裁判長から「ちょっと来て、見せて」と呼ばれ、胸元の支援団体バッジ(直径2センチ、文字サイズ2ミリ)を外すよう求められた。裁判長の目に入らなかったこのバッジを、同じく支援者の清水一人さんも普段から着けていたが、清水さんも外すよう求められたうえ、入廷時には背中に「Free Hakamada」と書かれたパーカーの「Hakamada」部分のみガムテープで覆われた。


服装によってあなたは入れる、あなたは入れないと裁判所が決めることで、「だれでも裁判を見られる」という「裁判公開の原則」が侵害されていると加藤弁護士は指摘する。
「だれでも裁判という国家作用を見に行くことができ、そこで自分なりの感想を持つことができること。司法の公正に対して『公開』の持つ意味は非常に大きい」
「なぜなら、実際に仕事ぶりを見て、法が身近にあり、裁判所も法を正しく運用するために努力していると思えたら、市民は司法を信頼できるから。法治主義の国で生きているという確信が持てるからです」
公開され、人の目にさらされ続けることによって、内容の公正も実現されていく。裁判の透明性と裁判の公正はつながっている。
「しかし今回、あいまいな基準のもとに、傍聴希望者に対して裁判を『公開』しないようにした。さらに、『あなたは入れない』としたことに対して何の説明もなかった」
基準があいまいであり、規制に対して何ら説明もされない。「とにかく理由も言わずに従え、と言うのは御白州(おしらす)的だ」と鈴木さんも指摘する。
「制限するなら法的根拠を示し、説明をすべきです」

日本は法治国家か―法の適用と説明責任
裁判所には、裁判所法71条2項によって「法廷警察権」と呼ばれる法廷の秩序維持が認められている。「法廷における裁判所の職務の執行を妨げる」または「不当な行状をする」者に対して、退廷等の措置をする機能である。
「しかし裁判所はこの条項に当てはめて判断していない」と加藤弁護士。
この条項を適用する裁判所の裁量は広くはない。今より裁判所が「荒れて」いた1969年に出た法令の解説(逐条解説)ですら、「職務の執行を妨げる」とは訴訟関係人に対する暴行や暴言・喧騒行為といった「法廷における静粛で秩序正しい手続の進行を妨害する行為」、「不当な行状」とは、酩酊状態での入廷、法廷内における飲食や喫煙、異様な服装、暴言・暴行といった「法廷において一般に守られるべき節度」を欠く行為や態度・服装と記している。
「袴田バッジの文字は2ミリです。それまでは支障なく進めてきたのに、それを休憩中にたまたま見つけたからとつぜん『妨害』ということになった」と加藤弁護士。
裁判官の目にも触れないものも「職務の執行を妨げる」のだろうか。
「たとえば横断幕やプラカードが規制の対象になりうることは理解できます。法廷はデモの場ではないからです。ではこの足首のレインボー柄も、横断幕と同じなのでしょうか?」鈴木さんは問う。
「もし同じだというのなら、どういう論理で同じだと判断しているのでしょうか?」
たとえ裁判官の目に触れたとしてもそれは「不当な行状」に当たるほどの異様な服装なのだろうか。最近では街でレインボー柄を見かけることも増えた。「レインボー柄はLGBTQ+コミュニティの連帯のシンボルでもありますが、そもそもが色の組み合わせという自然な模様なので、LGBTQ+の当事者やアライでなくても普段遣いする人はいるアイテムです」と鈴木さん。
コンビニで売られる程度に街に溶け込んでいる日常的なアイテムが、社会で受容されている「普通の格好」ではなく、「不当な行状」に当たるかどうか。どんな服装なら裁判所法に規定される「職務の執行妨害」や「不当な行状」、「異様な服装」に当たるのか。
「社会的背景に即して丁寧に条文を解釈するのが本来、裁判所の仕事であるはず。裁判所は、条文に立ち返った議論をするべきです」、加藤弁護士は指摘する。
「法律に則った運用をし、説明責任を果たす。それは、法治国家では当然の前提です」
そもそも法治主義とは、権力を法律という枠にはめて、権力の暴走を防ぐ理念である。法による権力の抑制は司法の役割のひとつであるはずだが、「実際には司法が、法律をもとにせず、理由も言わずに、市民に対して権力をバックに制限を加えている」、加藤弁護士は続ける。
「裁判所だけ法律・ルールから外れた運用がまかり通る? そんなことがあってよいのでしょうか」

そもそも裁判所と市民社会の関係はどうあるべきか?
「伝統的に、偉そうにする、神秘的にすることで権威を保つのが日本の権力のあり方ですよね」、鈴木さんは言う。
「最高裁の建物も要塞みたいで、窓もない。緊張感があり、ピリピリしている。荷物もロッカーに入れるし、行儀よく座っていないといけない」
「本来、司法は、判決内容で権威を保つべきです。法治国家として、国民の権利や人権を守る姿を見せることこそ、司法の権威を高めるはずです」
裁判所の仕事は,・・・国民の権利を守り,国民生活の平穏と安全を保つことです―裁判所
司法の役割は本来、「法の支配を貫徹し」、「国民の基本的人権を保障すること」である―参議院憲法審査会
鈴木さんが長年研究してきた台湾では「法廷の扉がいつも開いている」という。文字通り「オープン」な法廷である。
「だれもが自由にのぞけるし、出入りも自由です。形式ばっていないし、張り詰めた緊張感もない。もちろん服装の制限もありません」
「裁判所内に入ると、ボランティア市民がベストを着て、声をかけて案内してくれる」
「対照的に福岡では、ガムテープと段ボールを持って部屋の前で職員が待ちかまえていた。レインボー柄に貼るために。柄入りのマスクを没収するために。異常ですよ」鈴木さんは続ける。
どこか既視感があると思ったら、生活指導員である。ブラック校則である。
「従わせること自体が目的になった、意味のないルール。『規制することで権威を保つ』という点において、ブラック校則と構造は近い。学校でも人権問題になっているこの『支配の道具としての規制』を、同じ感覚で裁判官がやってもいいのか。これでは裁判所は、上から押さえつける御白洲時代と変わらないのではないか?」
「日本の最高裁では、傍聴人は表玄関から入ることを許されていません。私たちは裏口からしか入れない。見させてもらっているという感じ。コミュニケーションの場という観点が抜け落ちている」
この国の主人公はだれだ? ―そう鈴木さんは思ったという。

「身近な司法」と国民の信頼
「この訴訟で出てきた国の反論に、『服装規制は命令ではなく、任意の要請でした』という言葉がありました」と加藤弁護士。
「そのロジックに驚いた。傍聴希望者がルールも説明されないままつい従ってしまったのをとらえて、結果的に従ったから任意の要請でしたというのは、論理的におかしい」
「そもそも法律に基づいて行われるべき公権力のアクションを、あたかもルールみたいな雰囲気で、権威を背景にシャンシャンで進めていく。露骨な制限に見せずに『それとなく従って』もらう『日本っぽい』やり方でした」
裁判所側の権力然とした対応は、市民側がそれに何となく従うことで固定化していく。
「それに、通せんぼは事実上の強制でしたよ」と鈴木さんも振り返る。
国民が身近に利用することができ,社会の法的ニーズに的確にこたえることができる司法制度―法務省
「裁判所」の仕事を見に行こう! 公平な裁判を通じて国民の権利と自由を守ります―政府広報
利用しやすい司法制度―衆議院憲法調査会事務局
政府のウェブサイトには、「国民に身近な司法」を目指すこうした文字が踊っている。
「法廷の中を、テレビドラマやニュースで見たことがありますか?」と質問したら、多くの人がYesと答えると思う。「では実際に、法廷に行って裁判を見た/経験したことはありますか?」と聞かれたらどうか。トラブルがあったとき、私たちは解決のために裁判所を利用したくない。「だって怖い場所でしょ?」と思う。
日本の訴訟件数は少なく、「日本人は訴訟嫌いか」「それならばなぜなのか」という論争は長く繰り広げられており、制度の問題もその中で指摘されてきた。
20年ほど前に司法制度改革が始まり、国民に身近な司法を目指して司法制度へのアクセス改善が行われてきたが、本当に必要な人たちに裁判という選択肢は届いているか。訴訟件数でいうと、地裁での新たな民事訴訟件数は平成の時代からほぼ変わらない(141,526件、2024年※)。「日本人が訴訟嫌いならばなぜなのか」の理由の一端は今も、司法制度側の使い勝手の問題にはないだろうか。司法制度を担う裁判官の数も3,826人(2025年※)と、諸外国と人口比で比べても、国内の他の法曹人口(弁護士・検察官)と比べても少ないままだ。
「実際に裁判を経験したか」の質問に対して、多くの人がNoと答えるであろう理由を今一度、考える必要がある。
※いずれも裁判所の統計より

裁判所の体質と市民側の受け止め方
裁判所に行きたくないのは、裁判が高いから、遠いから、時間がかかるから、そういった物理的・制度的な要因ももちろんある。しかし日本では、制度的なハードルと同じくらい、裁判にかかわる心理的なハードルも高い。権利を守るために裁判所が十分に使われていない理由には、「怖いところ」としてセルフ・プロデュースしてきた裁判所の体質があるのではないか。
「裁判所は権威ばることによって国民の信頼を得ようとするのではなく」と加藤弁護士。
「仕事の中身で信頼を勝ち取るべきです」
「この訴訟は小さなことに見えるが、裁判所の体質に対する異議申し立てです」と鈴木さんも言う。
筆者は世界中で裁判を傍聴してきた。裁判所は怖い場所とは限らないと気づいた。気軽に入れる国も多い。北欧のノルウェーでは入りやすいように法廷に入る案内があったし、アフリカの国マラウイでは壁のない東屋(あずまや)が法廷だ。ブラジルは最高裁の審議がテレビで放映されているくらい裁判は「身近」な場所だ。
日本はどうか。私たちは、「裁判はどこか遠くで、少数の偉い人たちに行われている」と無意識に考えてはいないか。そんな「特別なもの」を「見させてもらう」裁判所では、靴下やバッジの規制くらい甘受していいじゃないか―そんな風に、裁判所のセルフ・プロデュースに市民側も応じていないか。「なんとなく」従っていないか。

裁判空間はだれのもの
今回の原告たちが声を上げたのは、着用を制限されたアイテムが彼らの日常にあり、彼らの大切にするアイテムだったからでもある。LGBTQ+コミュニティで象徴的だった色合いを、コミュニティ以外の誰もが日常で普段遣いするようになってきた今、あえて狙い撃ちのような規制がされることに傷ついたからである。
「ようやく声を上げられるようになってきたLGBTQ+コミュニティが、裁判に行くのを避けるようになってほしくない」と鈴木さんは言った。
なぜ、この訴訟は「たかが靴下、たかがバッジ」「そのくらい我慢したら」と思われることがあるのだろうと思っていた。
理由の一端は、根拠を聞かずに権力の声掛けに従うことへの慣れである。この一件で裁判所は「支配の場所」になり、私たちは「見させてもらっている」のだから、「この程度ならルール無しでも従ってもよい」が固定化していく。「大したことない」は広がっていき、違和感はどんどん削り取られて普通のことになる。そのグッズを大切に思う人たちへの想像力も削り取られ、「たかが靴下、たかがバッジ」になる。訴訟進行に影響を与えていない―見えない―小さなアイテムでも、とつぜん裁判所がお墨付きを付けた「問題グッズ」にされてしまう。
理由を示さない狙い撃ちが常態化する兆しはすでに見られる。今まで服装チェックはなかった各地の同性婚訴訟だが、本件の例ができて以降、東京高裁の同性婚訴訟で同様のチェックが入るようになったという。
「この件以降、裁判所に行くときは朝出るときに持ち物や格好のチェックをしなければならなくなった。私にとっての普通の生活スタイルだったアイテムも、否定されないだろうかと確認しなければいけない」
こうした訴訟を自分のことだと思って足を運ぶ傍聴人ら関係者への萎縮効果は明らかだ。
靴下やバッジを回収するために用意される箱、パーカーの文字を隠すために税金で買うガムテープ。配置される事務員。これらの「生活指導アイテム」は一体何のためにある?と、今、まだ違和感を持てるうちに考える。
裁判空間はいったい、だれのためにあるのだろうかと。

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/案納真里江(Marie Anno)
編集/丸山央里絵(Orie Maruyama)