裁判という方法で声を上げる、「それはゴミ拾いのようなもの」

2019.2.11

映画監督・想田和弘さんと在外国民審査訴訟をめぐるストーリー

「私たちは、日本人だと思われていないのではないか」と、1993年からアメリカのニューヨークに住む映画監督・想田和弘さんは憤る。

「私たち海外に住む日本人には、日本に住む日本人であれば普通にできることが、許されていません」

「海外に住む日本人だって日本の国籍を持つ主権者なのに、在外国民審査の権利はなく、主権者ではないというような扱いをされている。最近までは選挙権もありませんでした。私たちのことを『よそ者』だと社会がなんとなく思っていて、そのなんとなく思っていることを、法律の制度もなんとなく反映しているのではないか」

海外に住む日本人(在外日本人)は135万人を数え(2017年10月時点)、さまざまな分野で活躍している。彼らは2007年から、海外に住みながら国政選挙の投票(在外投票)ができるようになった。しかし彼らは今でも、選挙の投票と一緒に最高裁判所裁判官の国民審査をすることはできない。日本に住む日本人ならば当然に経験したことがあるであろう、投票後に配られる用紙の、裁判官の名前に×をつけて行う国民審査を。

在外日本人が国民審査をできないということについては、以前にも訴訟が起こされており、すでに2011年には東京地裁で「憲法に違反しているという重大な疑いがあるが、まだその違反の状態を正すのに必要な『合理的期間内』にある」という判断が出されている。しかしこの問題はそれから放置されたまま、8年という期間が経っている。

「それでもいいと思われているのでは。明らかに法律の不備なのに、国は変えようとしない。在外日本人を部外者として軽視する、ひとつの価値観のあらわれでしょう」法律の不備が放置されたままの現状を、想田さんはこう嘆く。

想田さんは、同じように海外に住んでいた日本人から声をかけられたのがきっかけで、裁判の原告として声を上げることにした。想田さんを含む原告5人が、国民審査の権利を行使できる地位を求めて2018年4月に起こしたのが、この「在外国民審査」の訴訟だ。

映画を撮ることと行動すること/「小さな世界から大きな社会の構造が見える」

想田さんは日米を行き来しながら主にドキュメンタリー映画を撮り、それを世界各国で公開する仕事をしている。

「映画を作るということは、自分にはこんな風に世界が見えているのだということを他者と共有する行為です。すごく複雑な世界をできるだけ複雑なまま描く。言葉にならないことを描く。映画は社会・世界へコミットする一つの方法ではあるけれど、それはあくまでも自己表現であり、一義的なメッセージのためには作っていません」

「それに対して、社会のあり方に対する活動や発言は、直接的なメッセージとして伝えている。一市民としての行為だと感じています。民主主義には、一人一人が自分の意見を表明し、議論することが必要ですから」

「映画を撮ることと社会的な活動をすること。いま申し上げたように分野も目的も違いますが、僕の場合、どちらも日常の中のこと、身の回りに興味があるという点では共通しています。目の前に人間がいて、具体的な問題があり、その具体的な問題と付き合いながら生きていく、というのが人生だと思います」

想田さんの代表作に、市議会議員の選挙活動の舞台裏を追った『選挙』がある。

映画の中では、「街頭演説では党の名前と自分の名前を連呼するべし」「妻でなく家内と呼ぶべし」など、私たちが「選挙」と聞いてイメージする選挙活動が圧倒的なリアリティをもって繰り広げられている。

「あの作品は、友人が立候補すると聞いて、単純に『面白そうだな』と思って彼の選挙活動の舞台裏を追いかけたのですが、そこにはとても興味深い世界が広がっていて、撮っているうちに、『あれ?ちょっと待てよ?』と考えることが多かった。そのころはまだ僕も未来に対して楽観的で、民主主義も市民社会も勝手に成熟するだろうと思っていたけれども、空洞化してしまった民主主義の姿を、すでにあの時に自分は見ていた。そのことに後から気づかされました」

声を上げること/「ゴミ拾いのようなもの」

想田さんはどうして今回、訴訟という形で声を上げようと思ったのだろうか。

「先ほど申し上げたように、僕も以前は、世の中は黙っていても良くなっていくと思っていました」と想田さんは振り返る。

「それが、東日本大震災のころから、そうではないと痛感するようになった。おかしいと思うことが起きても、おかしいという声が上がらない。思った以上に、民主的価値観が根付いていないのだと感じました」

「焦りました。同時に、思えば自分自身も選挙のときに投票するだけで、政治や社会に対する参加をサボってきたことに気づきました。自分たちのことは自分たちで決める社会にしたい。それが民主主義。僕も日本の主権者として、1億分の1の責任は果たしたい、と思うようになりました」

「社会へ参加する方法にはいろいろあります。投票すること、メディアで発言すること、論文やエッセイを書くこと、歌を歌うこと、デモを行うこと、演説をすること、ビラを配ること、FacebookやTwitterで意見を投稿すること。その中の一つの方法として、裁判を通じて参加するという道があっていい」

「原告という形で、もっと積極的に、政治や社会に対してコミットしていく。今は在外国民審査のほかに、選択的夫婦別姓を求める訴訟も起こしています」

声を上げ、行動することを「ゴミ拾いのようなもの」だと想田さんは表現する。

「道に落ちているゴミを自分が拾っても劇的には変わらないから放置しても良い、誰かがやってくれるだろうという考え方もあるけれど、そこで拾うという選択肢もある。ゴミを一個拾えば、街はゴミ一個分きれいになると思いたいし、実際そうだと思います」

「裁判もそうです。ゴミを拾っていくことで、自分も拾おうかなと思ってくれる人も出てくるかもしれない」

実際に、在外選挙の投票権については、「ゴミを拾った人たち」によって制度が動いた。

つい最近まで、在外日本人には選挙の投票権すら認められていなかったが、2005 年に最高裁判所で「投票権を制限するのは憲法に違反する」とする判決が出たのち、公職選挙法が改正されて、現在は国政選挙について投票できるようになった。

「法律には不備がある。しかし国側には、不備を認めたくないという『大人の事情』がある。これらにひとつひとつ地道に抗って、『拾えるゴミ』を拾っていくしかない」と想田さんは話す。

「僕は映画を撮るとき、できるだけ小さな世界にカメラを向けます。具体的で、小さな世界をじっくり見ていくと、そこにはより大きな世界の縮図が詰まっていて、大きな世界と相似形だったりします」

「訴訟でも同じことが言えます。それぞれの訴訟が扱うのは小さな世界かもしれませんが、その問題提起を通じて、大きな世界の構造が明らかになりうる。今回問題にしている国民審査や夫婦別姓の議論そのものは、法律の不備に関する争いですが、それを突き詰めて考えると、海外に暮らす人に対するスタンスだったり、夫婦のあり方に対するスタンスだったり、より大きな社会の意識が透けて見えるんです」

日本に住んでいる日本人にとっては当たり前で見えなくなっている「なんとなく」の可視化を、在外日本人の目線で今までもずっとしてきた想田さん。今回の訴訟で、在外日本人として自ら被っている「なんとなく」の不利益に先頭を切って抗うことを決めた。彼がゴミを拾うことは、次の「大きな社会の意識」の幕開けを告げているのかもしれない。

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)