入管の外でも続く、苦しみの日々

2020.9.2

クルド人のデニズさんと入管施設の収容をめぐるストーリー (後編)

(前編:外国人たちの絶望、死と隣り合わせの現実

うだるような日差しが傾いて、少しずつ空気が澄んでいく、夏らしい夕暮れだった。私たちは駅でデニズさんと待ち合わせて、近くの公園へ向かおうとしていた。

「こんにちは」、駅にやってきたデニズさんを見つけたちょうどそのとき、デニズさんの後ろでスーツ姿の男性が、駅の階段を踏み外して最後の2段を転げ落ちるのを見た。

「大丈夫ですか」、考える暇もないくらいすぐに、まっさきに男性に駆け寄ったのはデニズさんだった。デニズさんは男性を助け起こし、まわりの人が行き過ぎる中で「けがはない?」と聞く。

「大丈夫です」男性は答えて、きまり悪そうにデニズさんに頭を下げ、足を引きずりながら駅の中へ去った。私たちが挨拶をする前の、ほんの一瞬のできごとだった。

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

入管センターを出ても続く、苦しみ

入国管理センターに収容されていたデニズさんを訪ねたのは冬の終わり。季節は移り、仮放免中のデニズさんに外で再会したときはもう夏だった。白雲がちりばめられた空に、日差しは強く、私たちは噴き出す汗を拭いて公園まで歩いた。

コロナ対応もあって、そのころ仮放免を受けていた人は多いようだった。

「久しぶりだね」とデニズさんは公園の椅子に座り、にこっと笑って明朗な声で言った。「あなたが面会に来たこと憶えているよ。でもその後のことはあまり憶えていない。最後の3週間で、10回の自殺未遂をした…」

デニズさんが見せてくれたメンタルクリニックの診断書には、「統合失調症、外傷性ストレス」などと記載がある。

「入管で、身体にも、精神的にも、たくさん暴力を振るわれたから」

デニズさんは入管職員から受けた暴行を中心に、入管センターを管轄する国を訴えている。

裁判になった暴行シーンはニュースでも取り上げられているが、これは訴訟過程で提出されたビデオを抜粋したもので、もとの映像は35分にわたる。

その「フルバージョン」は、真っ暗な画面に響き渡る職員たちの怒鳴り声と「足引っ張れ」、デニズさんの「助けて!」から始まる。「はーい抵抗するなー」「はーい器物そんかーい」と、暗闇にねじ伏せるような大声。

5分のところでハンディカメラが揺れ、とつぜん明るい部屋に7人の職員の後ろ姿が現れる。職員の中央には、四肢を担がれる上半身裸のデニズさんがいた。デニズさんはまるで物のように床に置かれ、ごろりと転がされた。

「痛い、やめて」ともがくデニズさんに、職員たちは「痛いか!?」「抵抗しなーい!」「静かにしろ!」と大声で威圧し、指を首にぐりぐりと押し込む。職員の数は増えていき、制圧行為はそれから10分続く。デニズさんの右こめかみが切れて血が出ている。一方的な暴力の映像だった。

暴行の後隔離処分を受けたデニズさんはすぐに不服を申し立てた。それについて入管センター側も、「不服には理由がある」との判定書で回答した。

ところが国は訴訟の中で、この暴行は違法ではないと主張している。

入管の人たちから見たら『人間のくず』

訴訟の手続きは緊急事態宣言を受けて止まっていた。

「裁判止まってるけど、私次にまたいつ入管センターに戻されるかも分からない」、デニズさんは不安を語りながら、収容時のことを振り返る。

「入管にいるあいだ、今回裁判してる暴力だけじゃなく、そのほかにもたくさん暴力があった」

「私たち、入管の人たちの目で、『人間のくず』なの。『自分の国へ帰れ』と何度も言われた。『私クルド人だから、トルコに帰れない』といっても、『そんなの知らん、トルコに帰れ』『国で死ね』、『ここ私たちの国、あなた要らない』って」

「送還の航空券を準備するチケット担当の人にも、『国帰りますか?帰ってください』、ずっと言われた」

「刑務所に入るのは何年か決まってるけど、入管は(期間が)決まってない。私、4年もいた。そのあいだずっと、なんでもダメダメダメと言われた。病院に行きたくても、刑務所なら行けるのに、入管では行かせてもらえない。診断書も書いてくれないし、外の病院に行かせてもらえない。センターの中にもいろんな医者が来たけど、いいドクターは長くいない」

「自殺未遂したことを全然覚えていないのも、薬のせいだと思う。日本でもアメリカでも2錠までといわれている薬を、4錠処方されたから」

「誰も助けてくれない。何人が身体悪くなったと思ってる?」

「4年間、生活ルールの本を読みたいと言いつづけた。でも、見せてもらえないまま、懲罰房に入れられた。だけど私はまっすぐだから、これはダメだと思うことはダメだと言う。裁判もする。だから狙われる」

狙われても、デニズさんは入管の外にいるあいだ、難民の日のイベントに登壇し、精力的に取材を受けている。

仮放免後に行った記者会見の様子

外に出ても苦しい日々

「今、やっと外に出られた。でも奥さんと一緒に幸せのときも、入管のことが頭から離れない」

「入管では、部屋にいる私たちをチェックするために、担当たちが鍵を持ってきて、外からドアを開けて、閉める。だから今も、鍵の音を聞いたら、こわくなる」

トラウマを語るデニズさんの声が抑揚をなくし、沈んでいく。

「心の中から、涙がいっぱい出てる。私の普通の4年、奥さんと一緒の4年、なくなっちゃった。今も毎日、涙出る。毎日…」

デニズさんは言葉を絞り出すように声を出すと、視線を上げ、広場で走り回る子供たちや、噴水の前で自転車を止める大人を、談笑するカップルを見つめる。

今までの豊かな表情は消えて、彼はじっと、動きのない目で人々の輪郭を見つめる。その瞳は色彩がなく、暗い。

「見てよ、みんなは幸せで、仲間と一緒で、普通に生活だけど、私はそういうことできないよ。私、今、何をしたらいいか分からない。心の傷…大きい」

「今、奥さんと一緒は嬉しいですけども……」声を詰まらせながらデニズさんは続ける。「やっぱり中ですごいいろんなことあったから…」

「つらい。毎日暴力の夢、見てる。寝たくない。夢のせいで。眠りたくない。悪い夢いっぱい来るから。毎日…思い出して…」

そのままデニズさんはしばらく絶句した。まわりのざわめきが遠のいていく。大粒の涙がぽろぽろとデニズさんの頬を伝っている。さっきまで青かった空はいつの間にか橙色の雲を浮かべていた。

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

クルド人としての苦難

デニズさんはトルコで生まれ育ったクルド人だ。

トルコのほか、イラクやイラン、シリア、アルメニアなど中東に分断されているクルド人は、各地で迫害を受け、世界中に難民として亡命している。

世界ではその苦難は理解されており、クルド人の45%以上は難民として認定されている(2018年)。ニュージーランドに亡命したクルド人難民が文学賞を受賞したというニュースも新しい。

「私も、大人になるにつれて、クルド人の問題が分かってきて、デモに参加したこともあった。反クルド人の人たちに狙われて、ナイフでいきなり太ももを刺されたこともあった」

「警察でも暴力を受けたことがある。このままだと殺される、と思って、日本に逃げてきた」

デニズさんは2007年に日本に到着してから難民申請をしているが、13年経った今も難民とは認められない。

その背後には、トルコ政府と親密な関係のある日本政府が、クルド人を正面から難民認定しないという政治的事情がある。クルド人を「クルド人」として難民認定することはトルコ国内に政治的迫害があることを認めることになるからだ。

「認定」されない限り難民として扱われないから、日本にいるクルド人たちはずっと不安定な立場のままだ。

「日本の入管は、クルド人いつでも捕まえられる」デニズさんはいう。そのデニズさんも入管に捕まって、暴力を受けた。トルコでの暴力から逃げてきたのに、日本でもまた、暴力を受けた。

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

「難民申請中」の13年間

「難民は、認定を受けたから『難民』になるわけではなく、『難民』であるから逃れてくる」と、日本難民協会は報告書に書いている。

難民とは、「紛争や人権侵害などから自分の命を守るため、やむを得ず母国を追われた人たち」である。

日本は1981年から難民条約に加入しており、難民を保護する国際的な責任を負っている。条約の中には、「命の危険がある国に強制的に送り返してはいけない」「不法入国などを理由として、難民を罰してはいけない」という条項がある。(だから、入管職員が送還の航空券を独断で準備することも、『難民』に対しては本来許されない)

しかし、日本政府は逃れてきた人たちを「難民」として認定しない。そして「『難民』じゃないから、保護する必要はない」という。

日本で認定される難民の数は、この数年、申請者の0.1〜0.4%と極端に少ない数で推移している。世界に目を向けると、4割近い難民が難民条約に基づいて保護されており、補完的な保護を含むと46%(2019年)が保護されている。G7の国々も、申請者の4割以上を認定するドイツをはじめ、多くの難民を受け入れている。

1%を切っている日本の認定率は異常に映る。

それでも、難民申請中の人たちは、この0.1〜0.4%に一縷の望みをかけて、日本で暮らす。

難民認定が出る日を待ちながら暮らすのは、経済的にも肉体的にも、精神的にも負担が大きい。ホームレス状態になる人もいるし、そのあいだも入管センターはずっと口を開けて待ち受けている。

(日本では、難民認定を含めた外国人在留に関する実務を入管が一元的に担うため、難民認定に関わる体制が「難民保護」ではなく「管理」に偏っているという制度的な問題も指摘されている)※参考:難民支援協会ウェブサイト

「私、13年難民申請してる。その間は、保険もない。仕事できない。許可をもらわないと東京を出られない」デニズさんはいう。

しかしその年月が5年、10年と積みあがっていく中でも、人は生きていかないといけない。在留資格が宙ぶらりんで、いつ収容されるかも分からなくても、彼ら彼女らは人として暮らしていく。そのあいだに愛する人と出会うこともある。家族ができることもある。

デニズさんが奥さんと出会ったのは、日本に逃れてきた翌年のことだった。

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

奥さんとデニズさんのストーリー

「2007年の暮れ、夜空に緑と白の流星を見てね。すっごい綺麗で、つい願い事をしてしまったの」

公園の噴水広場にデニズさんの奥さんがやってきた。小柄な身体ににこにこと快活な笑顔で、奥さんはデニズさんとの出会いを振り返る。デニズさんとの思い出を語るのがとても嬉しそうだ。

「言うのも恥ずかしいんだけど、そのとき人生がうまくいってなかったから、『私を助けてくれる王子様に出会えますように』って願った。デニズと出会ったのはその1週間後だった」

「友達とバーにいるときに、絡まれていた私を助けてくれたのがデニズだった。それからやり取りをするようになって、すぐに仲良くなったの。一目惚れでした」

「デニズは、『私はビザがない人です』とすぐに話した。私、当時は難民のことはよく知らなかったけど、『結婚を前提に付き合いたい』とデニズに言われたとき、デニズが難民であるかどうか、クルド人であるかどうかは考えなかった。はじめは慎重だったけど、デニズのピュアな気持ちが伝染して、付き合うようになりました」

「歌や洋服の趣味も合うし、気も合うしね」

奥さんはよく笑う人だった。

「デニズはピュアで壁のない人。一緒に暮らす前も、デニズは隣の家のおばあちゃんと仲良しで、デニズがおばあちゃんにパイナップル持って行くと、おばあちゃんはリンゴ持ってやってくる、みたいなご近所付き合いをしてた」

「そのおばあちゃんには『どうか彼と結婚してください』と頼まれたこともある」うふふと笑う奥さん。

「あるとき、デニズとトルコ人の知り合いの間でトラブルがあった。相手が電話で私のことを侮辱したみたいで、デニズは抗議に行った。そうしたら手も出さないうちに相手に警察を呼ばれて捕まって、結局裁判になった」

「その訴訟の証人として裁判所に行ったとき、法廷で裁判長に『デニズさんと結婚しますか』と聞かれた。えー?そんなことここで言わなきゃいけないの?と思ったけれど、『はい、結婚します』と言った。そしたら、デニズが目をまんまるくして、『いいの?』って」

ふたりは2011年に結婚した。

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

あんなに悔しいことはないです…

奥さんに話を聞いているあいだ、姿の見えなかったデニズさんが戻ってきた。その背中に赤い夕焼けが見えた。手には5人分のアイスが入った袋があった。

「これ、みなさんに」デニズさんが言う。

「いいんですか?」私たちが聞くと、

「うん。公園だもの。当たり前じゃない。奥さんの休日は私たち、こうやって散歩して、アイスたべるよ。私、奥さんの仕事なかったらふたりでずっと散歩していたいよ」

デニズさんはもう明るさを取り戻していた。

アイスをかじりながら、奥さんはデニズさんを見つめる。

「あのビデオはね、あの入管での暴行のビデオを見たときは…あまりの衝撃で、私、泣いて、朝まで震えが止まらなかった。それまでは、あんなにひどいと思ってなかったから」

「あんなに悔しいことはないです…大切な家族が辱めを受けている、侮辱されている…あんなに大人数で…。怒りと悔しさで、最後まで見られなかった。翌日、牛久(入管センター)が開く9時ちょうどに電話したけど、あれを見た後だと、私も具合が悪くなってしまった」

「怖かったです。ほんとに、怖かったです。普通じゃない。家族がこんなことされてると思うと…こんなことやっちゃだめだ、ほんとに…」

身体の無理がたたり、仮放免後に通院した

罰則規定と支援者の苦悩

ついこの7月に、法務大臣の「出入国管理政策懇談会」で、入管難民法の改正に向けた提言がなされた。外国人が国外退去を拒否した場合は刑事罰を科すなどの内容で、出入国在留管理庁は提言を踏まえ、入管難民法の改正を検討するという。

出国命令に従わず罰則を科されるとなると、帰国できない外国人は刑事犯になり、入管施設と刑務所を行き来することになるだろう。

難民条約に「不法入国などを理由として、難民を罰してはいけない」という条項があっても、「この人たちは認定された『難民』ではない」として処罰の対象にする。それは、迫害されて逃れてきたかもしれない人を、日本でも迫害することではないのか。

罰則が科されれば、訴訟を準備する弁護士・行政書士や、食事や部屋を提供した支援者・家族も刑事事件の「共犯」として罰されるおそれが出てくる。実際に、不法滞在に対して同居の妻が共犯に問われた事件があったという(一審は有罪、高裁で無罪になった)。

デニズさんの奥さんも、「一番の支援者は家族です。罰則が作られたら、家族も犯罪者として扱われるんじゃないか」と危惧する。

「そういう目で見られ始めると、外国人の家族も差別の対象になる。今、差別がこんなに世界中で問題になっているのに、まだ差別を助長するの?って思う」

「4年という長い収容の中で、デニズとずっと引き離されているとき、私も悪いって言われているみたいでした。今もこうしてデニズがいつでもまた収容されるという状況で、私にも罰を与えられているのか?と思うこともある」

「デニズにビザがないことを知ってたんだから結婚しなきゃいいじゃん、と言われることもある。でも、これは理性で決めることじゃないから。ビザを持つ人かどうかじゃなくて、人間としてデニズを選んだから」

「大変なこともあるけど、難民申請中の人と結婚することは、間違いなんかじゃない」

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

訴訟を通じて変わったこと、訴訟の先の未来

デニズさんは「私は暴力をやめてほしいと思って裁判始めた」という。

「入管は、暴力をカメラの前でもやった。それが裁判をして、ビデオが出てきて、分かった。映像が出た後、変わったよ。分からない人が、分かった。今、ちょっと分かる人たちが多くなった。入管の中でもちゃんと守る人たちは、暴力をやめた」

「分かってる人は増えたから、それだけでも、変化はあるよ」

デニズさんの告発でビデオが出てきたのも、入管の中に良心を持った人がいたからなのかもしれないね、とデニズさんと奥さんは話す。

「中にいる時間が長かったから、中で会う日本人は、いつも怖かった」というデニズさん。でも、外に出て、駅の階段から落ちた人がいたら、それが日本人であっても外国人であっても助ける。

「それは人間だから。私が誰も助けなかったら、誰も私を助けないと思います」

デニズさんはトルコでも日本でも人間の悪意や暴力にさらされながら、それを大災と諦めたり、それに悪意で応えたりする人ではなかった。4年間、抑圧されつづけても、「ダメなことはダメだ」と思いつづけ、声を上げつづけた。

勇気とは瞬発的な跳躍だけではなく、4年でも13年でも41年でも、心を折られず、おかしいと思うことをおかしいと言いつづけ、そして理不尽の中でも優しくありつづける強さのことかもしれない。

「裁判の先の未来?私は、奥さんと一緒に死ぬまで日本で生きて、一緒に死にたい。天国でも一緒になりたい。奥さんをとても愛してるから、幸せにしてあげたい。とても優しい奥さんでしょ?」デニズさんが明るく言うと、

「私はデニズに、本当の自由を味わわせてあげたい。こうして外に出てこられても、彼はまだ全然自由じゃない。私と同じ自由を彼にもあげたいの」
奥さんが応じた。

撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)

話しているうちに日はすっかり暮れて、夜風がさらさらと階段を下っていった。

それからしばらくして、デニズさんから連絡が来た。

「8月末に入管から出頭命令が来ていたけど、それはコロナ対応で行かなくてよくなった。でも、次にいつ手紙が来るか分からない」

「だから、いつまた収容になるかも分からない。不安は消えない」

デニズさんの戦いが、デニズさんの勇気が守られますように、私は心から願った。

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
編集/杜多真衣(Mai Toda)

(前編:外国人たちの絶望、死と隣り合わせの現実