強い気持ちを持つ人しか行使できない日本の「黙秘権」は、もはや権利ではない

2024.7.10

56時間にわたる侮辱的な取調べを受けた江口さんと弁護団のストーリー

「能力が足りてない」「教官はどういう教育をしているんだ」「能力が相当程度劣っている」「ちょっと歪んじゃってる」……こんな風に毎日仕事仲間を怒鳴りつづければパワハラになる。

「鬱陶しいだけなんだよ」「お子ちゃま」「ガキだよね」「詐欺師的」「イライラさせる、人をね」……こんな風に来る日も来る日も家族を罵倒しつづけたらDVだ。労基署や、場合によっては警察に駆け込まなければならないケースもあるだろう。

しかし駆け込み先の警察や検察―権力構造の中―では、こうした人格攻撃や能力批判が簡単にできてしまうようだ。刑事事件の被疑者や被告人を相手に。

「あなたの中学校の成績を見ていたら、あんまり数学とか理科とか、理系的なものが得意じゃなかったみたいだねえ」事件についての話を聞くために呼ばれたはずが、検察官は事件の取り調べと全く関係のない被疑者の中学校時代の成績を取り寄せ、「論理性がさあ、なんかずれてんだよなあ」とあざ笑うことができる。それが今の取り調べの実態である。

被疑者を呼び捨てにし、「挨拶ぐらいしろよ」とすごみ、行動に無数の難癖をつける。事件と関係のない家族のことをあげつらい、無言で耐える被疑者を「明日も自分はサンドバッグになるのか」と絶望させる。それが被疑者に「取り調べ受忍(じゅにん)義務」―逮捕・勾留された被疑者は取り調べに応じる義務があるとする考え方―という名の服従を求める現在の捜査手法である。

被疑者が明日の取り調べに絶望して、電話もインターネットも通じない房に戻り番号で点呼されている間、検察官は自宅に帰る。ビールを飲むこともNetflixを見ることも、仕事に忙殺されることもできる日常に戻る。ふたりの間には同じ時間が流れている。

▲独房から出ても、精神攻撃しか待っていない日常がつづく。攻撃は日に日にひどくなる

56時間にわたる侮辱的な「取り調べ」

「取り調べと称して事件のことは何も聞きだそうとしていない。攻撃するだけでした。精神的に屈服させて、供述を強要しようとする意図を感じました」

2018年10月、江口大和(やまと)さんは犯人隠避(いんぴ)教唆(きょうさ)罪の嫌疑で逮捕され、22日間身柄拘束された。その間、江口大和さんは黙秘権の行使を宣言したにもかかわらず、取り調べという名のもとで事件に関わりのない精神攻撃にさらされた。取り調べ総時間は56時間22分に及んだ。

「我慢できなくなって言い返したら捜査機関の思うつぼ。そう思って耐えました……」

黙秘を貫いた江口さんだが、「自らの受けた取り調べは憲法で保障されている黙秘権、弁護人依頼権、人格権を侵害する違法なものであった」と、取り調べ中に受けた精神的損害について国に賠償を求めている。

「取り調べの録画を見て私たち弁護士もそのひどさに驚いた。普通なら折れてる」と、国賠訴訟を担当する弁護団(宮村弁護士、趙弁護士、髙野弁護士)は口をそろえる。

「今回、江口さんは強靭な精神力で耐えただけ。黙秘権を権利として行使できたわけでもなんでもない」、そう指摘するのは主任弁護人の宮村啓太弁護士。

「果たして憲法は、こんな精神力を被疑者に求めているのか?」

日本国憲法38条1項 
何人も、自己に不利益な供述を強要されない。―黙秘権

▲取り調べ、身柄拘束はなぜ行われるのか。権利は何のためにあるのか。江口さんと弁護団は「黙秘権」のあるべき姿を探す

逮捕された瞬間、必要以上に弱い立場に追い込まれる

なぜ憲法は黙秘権という権利を規定しているのか。それは被疑者が逮捕された瞬間、「国家権力vs.身ぐるみはぎ取られた個人」という圧倒的な力の不均衡が生じるからだ。

江口さんは当時弁護士として活動していたため、被疑者の権利も立場も仕事上理解していた。それでも実際に自らが被疑者になってみると、「思った以上に脆弱な立場に追い込まれるのだということを思い知った」と言う。

「密室に入れられ、弁護人以外誰とも話せず、スマホもパソコンも使えず外界から孤立する。毎日数字で呼ばれ、『非人格化』される。独房は冬が近づくと寒く乾燥しているし、目薬やクリームといった生活用品も十分に支給されない身体的な不自由がある。そして取り調べでは毎日、精神的屈辱を受け続ける。どんな人だって、社会から隔絶されて一人ぽっちで攻撃を受け続けると、みんな不安になります」

江口さんのメンタルを蝕んでいったのは「尊厳のある人間として扱われていない」という理不尽さだった。

「まだ起訴さえされていない段階から、『被疑者なんだから従属的な態度をとるべき』という風に扱われつづける。このダメージは心の中に少しずつ蓄積していった」

そもそもなぜ逮捕されると勾留されるのか。それは、罪証隠滅、逃亡のおそれを回避するためと刑事訴訟法には規定されている。

「それが実務では、勾留される者に罪証隠滅・逃亡防止以上のものを強いているのが現状です。果たして外部からの情報を一切遮断する必要はあるか。接見禁止を付けて家族とすら話せないようにする必要はあるか。これは『被疑者だから当然』な扱いなのか」と趙 誠峰(ちょう・せいほう)弁護士は問題提起する。

「本来は罪証隠滅・逃亡を防止する以上の制限をかける必要はないのではないか」

しかし捜査実務では、被疑者は「常に服従すべき存在として」扱われている。

「こうした状況を捜査機関は利用している。それが、日本の捜査が『人質司法』―身体拘束を武器に自白を取る捜査―と呼ばれる所以です」と宮村弁護士。本来必要とされる対応以上に被疑者や被告人を追い込み、孤立させ、精神的に屈服させて―身柄を人質にして―、自白を取る手法だ。最近では、すでに長期間任意取り調べに協力した会社経営陣に対して、自白を取るために11カ月もの身柄拘束が行われ、これが典型的な『人質司法』であったと問題となった(大川原化工機事件。捜査機関の対応は違法だったと東京地裁で判示されている)。

「さらに弁護士との信頼破壊も自白強要の手段の一つとして使われていた」と髙野 傑(すぐる)弁護士も指摘する。

勾留中、孤立している被疑者が唯一話すことができるのが弁護人である。しかし日本の実務は弁護人が取り調べに立ち会うことが権利として認められていない―英国、アメリカ、イタリア、韓国、台湾など多くの国では立会権は認められている―。江口さんも弁護人の立ち合いのない取り調べ中、検察官によって「弁護士の先生も困っているよ」「弁護人に迷惑かけないでもらいたい」と吹き込まれ、不安をあおられた。

「このやり口は珍しいことではない。この検事が悪いというより、それを可能にしている権力構造の問題なんです」

▲「一人の個人の権利が限りなく矮小化されてしまうのが刑事手続です」、趙弁護士は言う

黙秘権とは権力に対する防御の仕組み

権力は、取り調べに関係ないネタをふんだんに使い、20日以上、56時間以上をかけて、密室にいる江口さんのような個人の尊厳をブルドーザーのようにすりつぶすことができる。その強大な権力に対する防御の仕組みが、黙秘権や弁護人依頼権といった刑事手続における防御権だ。

中でも黙秘権は、「捜査に協力しなくても良い権利、真実を隠してよい権利とも言えます」と趙弁護士は説明する。

「なんで真実を隠してよい権利が憲法上認められているのか」

「例えば親は子どもに対して、嘘はついちゃだめだよと教えるかもしれない。だけど捜査の場は教育の場ではないからです」

「刑事手続は国家が一人の個人を訴追し刑罰を負わせる手続であり、その一人は守られる必要がある。国家は犯罪捜査をするにあたってたくさんの力を持っています。捜査が国家運営上必要であるとしても、訴追する証拠を集める手続は国家が自らやらないといけないことで、被疑者が協力して行うことではない」

訴訟の中で検察側は、「視野が狭い」と江口さんを罵倒したことを「説諭(せつゆ:教えさとすことの意)であった」と主張する。弁護人が言っていないことを江口さんに伝えて不安をあおったことは「誤りを正すため」、「説諭する趣旨」であり、能力批判を繰り広げた理由は「内省を深めさせるため」としている。家族の状況を心配している江口さんに「つらいと思いますよ、特に家族は」と不安をあおる発言も「自覚を促す趣旨であった」と主張している。何度も確認するがここは「取調室」という密室で、江口さんは身柄を拘束されており、「親が子に対して道徳的な指導を行う場」にはいない。

「言い返したくなるけど、黙秘せずに供述すると捜査機関の良いように調書を取られ、公判で不利に扱われる。食い違いがあると信用性が下がるし、弁護人にも迷惑かかる」と江口さんは話す。

「そのことを自分は弁護士をやっていたから知っていて、どんなにサンドバッグにされても、起訴後のことを考えて黙秘をつづけられました。だけど、知らない被疑者は、不安に駆られて認めてしまったり、つい言い返してしまったりすることもある」

「黙秘権は、知識があり、強い気持ちを持つ人しか行使できなくなっている」

▲検察官は被疑者を呼び捨てにする。江口さんも「江口」と呼ばれていた

「取り調べ受忍義務」はサンドバッグになる義務か

「黙秘するのに強靭な精神力が必要って、どういうこと?」趙弁護士は疑問を呈する。

「犯罪の嫌疑を受けたら取り調べの客体になることが当然の前提になっていないか?そこに権利性は失われていないか?」

黙秘権は「個人の尊厳と直結する権利」である。しかし今の実務上、身柄拘束されている被疑者は取り調べを拒否できず、捜査機関は「被疑者は取り調べを受忍する義務がある」という立場に立っている。これが法律上の義務かどうかは、刑事訴訟法(※)の解釈をめぐって長い間議論されてきた。裁判所は受忍義務があることを前提とする立場に概ね立っているものの、学界では黙秘権との整合性から受忍義務を否定すべきという説が展開されており、「身体拘束中の取り調べに内在する強制的雰囲気」は長く指摘されている。

黙秘権が問題になる場面は、1対1の人間が対等な環境で議論する場面ではない。何の資料も持つことを許されない丸裸の個人が独房から、あらゆる資料を手にした検察官の執務室に呼び出されている不均衡なシチュエーションである。それを止められるのは、勾留自体を決定する裁判所だけである。

※刑事訴訟法198条但書「被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる」

▲自分の心と尊厳を守るために、江口さんは日記を書き続けた

江口さんは取り調べを担当した川村検事の罵詈雑言(ばりぞうごん)に対し、無言の「サンドバッグ」として耐えつづけた。現状の実務だと、取り調べの続行自体を拒否できすることができなかったからだ。そんな江口さんの勾留期間延長を裁判所は決定した。「取り調べ受忍義務」とは勾留期間中「サンドバッグになる義務」になっていた。

被疑者に対する身体的・心理的負担を考えると、黙秘権を実質的に保障するには、「そもそも取り調べを拒否できるべきである」と弁護団は主張する。

「黙秘権行使を宣言した被疑者に対して取り調べの続行を強いること自体が、黙秘権を侵害しているのです」と宮村弁護士は言う。

黙秘権行使を宣言するという「権利行使」によって不利益を受けるという帰結が、今の実務だ。「取り調べ受忍義務」を容認して取り調べの続行を認め、供述を「説得」する行為が許されているがゆえに、自白を取りたい捜査機関は「説得」「説諭」「諫(いさ)める」「内省を深めさせる」といったあらゆる理由をつけて取り調べを続けことができるからだ。

国際的に見ても、日本の身柄拘束下での取り調べ偏重は顕著な傾向だ。G7やOECD諸国に目を向けると英国では逮捕から起訴までの拘束可能時間は24時間。ドイツでは、捜査段階の供述調書に原則として証拠能力は認められないうえ、検察官は原則自ら取調べを行わない。オーストラリアではそもそも身柄拘束は4時間。「身柄拘束され、取り調べを強要されること」が当然である国は日本くらいである。アメリカや韓国の裁判所は、黙秘権の保障を徹底するための「手続的保護措置」も要求している。アメリカでは黙秘権等の事前告知が要求され、黙秘権が行使されると取り調べは中止される。韓国では被疑者が黙秘した場合は一問一答形式の取調べ調書に「(黙秘)」と記されることで、捜査機関が類似の問いや説得を繰り返した場合に黙秘権侵害を確認できるようになっている。

▲宮村弁護士。「取り調べの状況は、思っていた以上にひどかった。私たちも気づけなかったという反省があるくらいに」

公開の意味と課題

しかし、取り調べ受忍義務を容認する立場に立ったとしても、「江口さんに対する事件と無関係な侮辱的取り調べが『説得』を超えた違法なものであることは変わらない」と弁護団は付け加える。

「そして弁護士だった江口さんですら、こんな目に遭ったということは、ほかの人はもっとされているということです」髙野弁護士は言う。

「私たちはこの状況をきちんと検証し、広く知ってもらわなければならないと思いました」

もともと密室で行われる被疑者取り調べは冤(えん)罪の温床になっていると指摘されてきた。2016年になり、刑事訴訟法等一部改正の中で(2019年6月に施行)、裁判員裁判事件など一部の事件は被疑者取調べの録画が義務づけられた。

しかし録画した映像を国家賠償訴訟など民事手続で証拠として使うためには民事訴訟法上の「文書提出命令」手続を踏む必要があった。国は提出を渋り、江口さんたちは半年以上を待たなければならなかった。

「取り調べの録画は事後的に検証するためにあるはずなのに、検証の場が保障されていないのは重大な問題です」

今回の裁判では、最終的に一部の映像のみ裁判所の証拠調べ手続で再生することが認められ、民事手続の中で取り調べの動画が検証された初めてのケースとなった。

「大きな反響があった。それまでは取り調べでどういうことが行われているかが知られていなかったから、社会の反応にも『悪いことしているからこれくらいいいでしょ』というようなものがあったが、今回の事件ではそんなことはなかった」髙野弁護士はつづける。

▲髙野弁護士。「今まで自分だけは弱い側に立たされることはないと思っていた人たちも、中身を見たら想像することができる」

社会の役割は想像すること

「いろいろな意見があっていいんです」、趙弁護士は言う。

「被疑者の方が悪いという意見であってもいい。だけど、情報公開しないと議論自体が起きない。それが一番良くない」

刑事司法は閉ざされていると趙弁護士。「捜査の秘密」といったパワーワードを盾に、密室での度を越えた権力行使は常態化している。

「それに抗う必要がある。取り調べというのは権力行使の最たる場面です。権力を行使する側も、批判されるかも、ということを感じながら取り調べをするべきです。検証することは、権力に対するけん制になります」

この訴訟に続いて6月には別の民事訴訟でも取り調べ動画が再生された。

「推定無罪とか、冤罪の可能性があっても、『悪いことした』とレッテルを貼られた被疑者は市民から『追及されても仕方ない』ととらえられることが多かったかもしれない。事件は権力の側から物事を見るように作られているからです」宮村弁護士も言う。

「だから今回の可視化にはとても意味がある。社会がいろいろな観点から見る契機になる」

「ある日突然事件に巻き込まれることはありますから」、江口さんも言う。

「そのときにどういう扱いを受けるかは、圧倒的に知られていなかった。家族には心配されましたが、動画を公開したのは、それを社会の皆さんに知ってほしい、一緒に考えてほしいと思ったからでした」

動画では、取調べ中「トイレに行きます」と申し出た江口さんに対し、川村検察官が「トイレがなんだ」と恫喝し、「『行きます』じゃなくて『行きたいです』でしょ」、「取調べの妨害になりますよ」とつづけるのが映っていた。その4分後、トイレから戻った江口さんに対して検察官は間髪入れず、「『取調べ中断してすいませんでした』とか言うんじゃねぇの、普通。子供じゃないんだから。あんた被疑者なんだよ、犯罪の」と言っていた。このやり取りを訴訟の中で検察側は、「故意に取調べを中断させるような態度を諫める趣旨」だったと説明した。

動画を見ることができて良かった。捜査機関が被疑者をどう扱っているかが映像で見えたからだ。江口さんの心細さを想像することができたからだ。「民事訴訟で取り調べ動画が再生された日本初の訴訟」の、公開動画を見た多くの人と「想像」を共有することができるからだ。

▲江口さんと弁護団。「この訴訟は、取り調べの検証を通じて、市民とともに個人の権利とは何か、考える訴訟だ」

※YouTubeで公開された江口さんの取調べ時の動画は、こちらからご視聴いただけます。
川村政史検事による取調べ動画(法廷再生版)


取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/穐吉洋子(Yoko Akiyoshi)
編集/丸山央里絵(Orie Maruyama)