私たちのことを私たち自身が議論できる社会をつくるために

立候補年齢の引き下げを求めて提訴した若者たちと弁護団のストーリー
7月10日、東京の最高気温は36.5度。
19歳から25歳の6人は「立候補年齢引き下げ訴訟」を提起した。原告となった彼ら彼女らに会いに行く道すがら、アスファルトから湯気がのぼるのが目に見えた。
公職選挙法10条
衆議院と地方議会に立候補できる年齢は25歳以上。
参議院と都道府県知事は30歳以上。
立候補できる年齢の境界はなぜ25歳と30歳であるのか。その問いに、実は誰も合理的な答えを持たない。
2023年4月の地方統一選で、年齢を理由に立候補届を受理されなかった6人は、「公職選挙法10条は立候補する権利―国民主権たる被選挙権―を侵害しており、憲法違反である」として、立候補年齢の引き下げを求め、国を相手に訴訟を起こしている。
6人のうち、神奈川県知事選挙に出ようとした能條桃子さん(25歳)、都留市の市議会議員選挙に出ようとした久保遼(はるか)さん(19歳)のふたりは、4年後にも県知事選、市議会選に出られない。訴訟を通じて、自分たちが立候補できる地位にあることの確認を求めるほか、立候補できなかったことは国の立法不作為に基づくとして国家賠償も求めている。
国民主権と政治参加
「若い世代が、『自分たちの持つモヤモヤの解決を社会に対して主張していいんだ』『そのためにはこういう手段があるんだ』と思えるようになるには、聞いてもらえるシステムを作ることが大きいと思った」
大学2年生、19歳の久保遼さんが政治参加の手段に目を向けたのは高校生のころだった。
福井県の地方部で育ち、環境問題や福井県に集中する原発の問題に関心を持った久保さんは、気候変動のデモに参加する中で、「デモには行っても、政治に直接声を届けられるパブコメの件数は少ないことに気づき、政治参加の方法をもっと多様にしたいと思ったんです」
「たとえば台湾だと、ネットで『この政策はこんな風にしてほしい』と書き込めたりする。その書き込みに対して賛同者が一定数あれば議会は話し合わなければいけないとか、届けた声がどうやって反映されるかまで決まっている。日本では、パブコメなどで集めた市民の声が、どのように政治に影響を与えているかわかりづらい。台湾のような政治参加のモチベーションを上げる仕組みを作りたいと思うようになった」

みんなのことはみんなで決める
そう考えるようになったのは、「自分の意見が尊重される環境にいたから」と話す久保さん。
「私が18歳まで通った学校では、どんな小さなことでもみんなで話し合って決めるというルールがありました」
100人の小規模の学校で、生徒のトラブルから学校のルール作りまで、ミーティングを開いて話し合っていたという。
「たとえば同級生同士で小さな喧嘩があったとき。自分は関係ないと思っていても、実は必ず関係しているんですよね。喧嘩を見て見ぬ振りしていたり、仲の悪さに気づけていなかったり。その子たちだけの問題じゃなくて、僕らもできることあるんじゃないか、変わらないといけないんじゃないか、みんながみんなと過ごすには何が必要か、みたいなことを話していました」
自分の意見を伝え、まわりの意見も聞く中で、「自分が声を上げたときに聞いてもらえないと、自分の声には意味がないと感じ、自己効力感がそがれると思うけど、自分の意見が尊重されている環境にいると、『自分の意見はちゃんと意味がある』と思って『多様な声を聞かない社会に問題がある』『どうやったら聞いてもらえるようになるんだろう』と考えるようになる」という。
「地域社会での活動をしたかった」という久保さんは、4月の統一地方選に際し、「若者がひとり立候補するだけで、選挙の手伝いなどを通じてまわりの若者の政治参加も広がり、その方法も多様になるはず」と、住んでいる都留市の市議会に立候補しようとしたが、立候補届は年齢を理由に受理されなかった。
憲法前文 ― 国民主権
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

被選挙権は国民主権の根幹であり、民主主義の根幹
「国民主権というものは、自分たちで自分たちの政治を決めるということ」
そう説明するのは、訴訟の主任弁護士を務める戸田善恭弁護士だ。
「古代ギリシャにさかのぼると、市民はみんな民会に集まって議論し、国政に直接参加できた。そこではみんな投票もでき(選挙権)、政治の意思決定を行うことができた(被選挙権)」―民主主義を支える『治める者(治者)と治められる者(被治者)は同一であるべき』という原理だ。
「それが時代を経て議会制を取るようになって、民意を反映する距離が遠くなったのが近代ですけど、本来、民意は直接反映されるべきという原理原則がある。その中でも、自分たちが直接政治をする被選挙権こそが国民主権の根幹をなす、『主権者の個人的な権利』です」
「ですから本来、選挙年齢と立候補年齢は一致させ、『治者』と『被治者』を同一とするべきなんです」と戸田弁護士。
「過去の最高裁判例も、立候補の自由は、憲法15条1項の趣旨に照らし憲法の保障する重要な権利であるから、これに対する制約は特に慎重でなければならないと判断しています」
立候補の自由に対する制限は、有権者による候補者選定の自由も制限することになり、結果として選挙権の制限にもつながるからだ。
憲法15条
1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
3項 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
ところが日本では、被選挙権の行使が可能な年齢=立候補年齢(25/30歳)は、成年年齢かつ選挙年齢の18歳から大きく乖離している。当然、投票には行けるが政治の意思決定には入れない層が生じ、今、Under30の有権者は1,500万人に上る。
20代は全人口の10%、10代は16%を占めるが、30歳以下の地方議員は少なく、国会議員ではゼロだ(30代の国会議員も全体の3%しかいない)。一方で、50代以上の地方議員は全国の市議会・区議会で80%、県議会で75%を占める。
時代遅れの規定
その乖離があることを分かりながら、なぜ公職選挙法は立候補年齢を25/30歳と設定し、そのままにしているのだろうか。
公職選挙法10条が制定されたのは1950年。立候補年齢を30歳とした1925年の普通選挙法(その原型は明治時代にさかのぼる)を受け継ぎ、「政府が選挙権・被選挙権を『与える』国民を選ぶ」という発想も引き継いでの年齢設定だった。
時代は下り、年齢設定の理由について平成の政府は、「相当の知識や豊富な経験を必要とする」から(1998年)、「社会的経験に基づく思慮と分別を踏まえて設定」した(2019年)と答弁している。
「国民主権の根幹を担う人権が『思慮分別』などというあいまいなワード、100年前に判断された基準ではく奪されているのが現状です」と戸田弁護士は指摘する。

「若者」とひとくくりにされる問題
「活動の中で政治家に会うと『若い世代の意見を聞きたい』と言われるのだけど、世代内の格差だってありますし、私たちを“若い世代”という一言でくくれるものではないですよね」
大学で財政を勉強しながら若者の政治参加が盛んなデンマークに留学し、帰国後、「若者の政治参加を身近なものに」と一般社団法人NO YOUTH NO JAPANを立ち上げた能條桃子さんは言う。
「だけど、世代内の格差もあると状況を説明してもあまり伝わらなかった。それに、たとえば少子化政策に対する意見を聞かれて、漠然とした将来への不安があるといっても、『俺たちのころはもっと大変だった話』を展開される」
「これでは何言っても伝わらないだろうなと思ったし、多様な同世代の中の私を呼んで話をさせて、『若い世代の意見も聞いたね』ってやってるのが、すごく変だなと思った」
「頑張って意見を届けようとする活動も大事だけど、意見を聞く人側の多様性がない状態は苦しいなと思うようになりました」
能條さんの話を聞いて気づいたのは、こうしてひとくくりにされるのは若者だけでないということだった。女性、LGBTQ、外国人、障がい者、貧困層、刑事被告人……マイノリティや社会的弱者―私たち誰もがなりうる―は、その内部の多様性にかかわらず、社会の線引きによってひとくくりにされ、特別視の対象とされて「レッテル」を貼られる。
憲法44条
両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。

「若者差別」という差別
憲法44条で教育による被選挙権差別が禁止されている一方で、「経験」や「思慮分別」による差別―若者には「経験」「思慮分別」がないとひとくくりに仮定して差別の対象とすること―がまかり通っている。それが「若者差別」である、と戸田弁護士は説明する。
「若者差別が今までフォーカスされてこなかったのは、みんな昔は子どもだったから、通過点と考えられて、差別の対象として可視化されづらかったからだと思います」
「だけど構造は、ジェンダーとか人種に基づく差別と類似している」
戸田弁護士は、戦前日本の「婦人参政権」やアメリカの「アフリカ系住民の公民権」がなかったころの例を挙げる。そのときの社会では女性や黒人に公民権がないことが「当たり前」とされていたかもしれないが、それは当時の仕組みに基づいて価値観が固定されていただけで、「よく考えると不合理だし、今振り返ってみればおかしいということがすぐ分かります」と。
さりげなく「#一人前ではない」というレッテルを貼られることで、そのレッテルに合理性がなくても、差別する側もされる側も当然だと思ってしまうのだという。
「ナチス時代のドイツも、ニュルンベルク法によってユダヤ人から参政権等の公民権を取り上げた。立法府に被選挙権をはく奪する裁量を安易に認めたことが、民主主義の著しい後退につながった例です」、戸田弁護士はいう。被選挙権はく奪の帰結は民主主義の後退だけではない。このときナチスドイツはユダヤ人を政治のテーブルにつかせないことで社会的スティグマの対象とし、声を奪い、差別を作り出した。
意思決定の場に当事者がいない構造
「コロナ流行中、若い人たちがメンタルヘルスの問題を抱えているのを見てきた。一人暮らしの狭い部屋で独りでいる人たちはしんどかったのに無視されて、大学の開講も一番遅くなった。結局、家族で住んでいる国会議員が主に想定しているのは家庭のある人たち。議論の場に若い人の代表がいたら変わったのにと思った」と、能條さんは訴える。
「それはメンタルヘルスの話だけじゃない。根本は、いろんなイシューの意思決定の、構造の話だと思う」
昨今の緊急避妊薬(アフターピル)の認可をめぐる議論の中で、中高年男性で構成されている検討委員会や医師会の議員連盟が「若い女性が濫用するから」「中絶手術で成り立っている産婦人科が経営基盤をなくすから」「性が乱れるから」と認可に反対し、大臣まで提言をしたのを目の当たりにした、と能條さんは振り返る。
「本当に必要としている当事者の声は届かないのに、こうした権力を持つ団体の提言は大臣まで上がっているということがすごくグロテスクだと思った」
「本来その人たちのためにあるはずの当事者の主体性は無視されて、ビジネスとか、権力とか、その業界の偉い人の都合で話が進んでいる」
緊急避妊薬やジェンダー平等の話だけでなく、選択的夫婦別姓にも、同性婚にも、気候変動にも、教育や経済格差の話にも、社会保障や雇用や学費の問題にも、「いろんな社会課題に対してそう思う」と能條さん。
「1個1個問題提起するようなキャンペーンをやっていても、もちろん一つひとつが大事だとは思うけれど、結局最終的に変わらない理由というか全部戦っている相手は同じだっていう感覚になる。構造の話だなって」
能條さんと久保さんだけではない。今回提訴した他の4人もそれぞれに、制度のアップデートを提言したい社会課題を当事者として抱え、「政治の場の自己決定権がない」状況とたたかおうとしている。
吉住海斗さんはキャリアの格差を、Chico.さんはジェンダーの格差を、中村涼夏さんは地方と都会の若者の格差や、気候変動への世代間の意識の差を、中村涼香さんは核兵器廃絶と若者の政治活動に対する抑圧を、「自分のこととして」訴える。

声を上げることが同世代へのエンパワメントになる
能條さんは続ける。
「今回私が司法に訴えることを選んだのは、他のいろんな手段を尽くしたからというのもあるんですけど」
「法律を変えたいときは国会議員に陳情に行くのも大事だけど、正面から戦って『私たちは権利があってしかるべき』と分かってもらう方が同世代へのエンパワメントになると思ったから。権利は見える形で持たないと、自分に権利があるということが分からない」
「権利をはく奪されている同世代が、それはおかしいと気づく機会に、問題を問題として認知する機会になってほしいと思った」
「求めるのは年齢による差別のない社会。引き下げが達成されて若者が政治に入ると、政治のアジェンダセッティングも変わってくると思う」

世界の潮流
私は少し前に行ったアフリカの国ルワンダのことを思い出していた。Covid-19流行の中でIT先進国ルワンダが「裁判のオンライン化」に舵を切ったとき、「高齢者はパソコンやスマホで裁判なんてできない」という声も上がった。だけどそれに対して政府が予算をつけて、地域のキオスク(日本でいうコンビニ)にパソコンを置き、オンラインで裁判をする方法を高齢者に対してレクチャーする地域の若者を育てた(同時にプライバシーやセキュリティの問題も議論されている)。
人口構成や社会構造、政府のインターネット政策も違うけれど、そこにある根本的な違いは「アジェンダセッティングの基準は、誰か」だった。ルワンダ議会の立候補年齢は21歳以上だそうだ。
世界を見ると、OECD加盟国では立候補年齢を18歳以上と定める国が最も多く、2020年当時は36 カ国中21カ国。残り9 カ国も21歳以上であり、さらに過半数の国では立候補年齢と選挙権年齢は一致している(※)。ドイツは1974年、イギリスは2006年、フランスは2011年、韓国では2021年に、下院や地方議会の立候補年齢が18歳以上に引き下げられた。引き下げが相次ぐ世界の潮流は、若者の政治参加の促進そのものが政治のアジェンダになっているということをあらわしている。
※出典:『レファレンス(The Reference)』(国立国会図書館・2020年6月刊行)
Over30の問題でもある
その日、話を聞き終わった後に久保さんがつぶやいた。
「若い人が年長者に敬語を強制される空気感も、若者差別につながると思うんです」
能條さんは「逆に年配の人が、関係性がないのに見た目だけで敬語を使わないことも問題なのでは」と応じる。
「今まであまり考えていなかったけれど……」30~40代で構成される弁護団はそれを聞いて、うーんとうなっていた。「たしかに敬語の強制は上下関係を固定化しているかもしれない」「私たちも無自覚にタメ語で話しちゃってないか」「そこに上から目線はなかったか」
「というか私たち世代だって、最初からタメ語でしゃべられてモヤッとすることあるよね。見下されてるのかなって」「この線引きは何なんだろう……」
話を聞きながら、自分が19歳のころ、「若いのによく考えてるね」などと言われて「ありがとうございます」と素直に敬語で感謝までしていたことを思い出した。その根底に「若者は能力が低い」というステレオタイプがあることに、どうして私は自分が若者のころ無自覚だったのだろう。
いや、「今、私も原告たちに対して『若いのにすごい』などと思っていなかっただろうか」。
私はそのとき、この訴訟に対して私たちOver30がとるスタンスはきっと、「がんばれ」ではないと思った。
私たちのとるスタンスは、この問題は私たち自身のものだと認めることだと思った。

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/雨森希紀(Maki Amemori)
編集/丸山央里絵(Orie Maruyama)