100年前にお墓から盗まれた遺骨は誰のもの?

2021.10.7

「琉球人のご先祖の遺骨返還を」訴訟をめぐるストーリー

待ち合わせは、那覇から車で1時間半ほどの今帰仁村(なきじんそん)役場だった。ハイビスカスやプルメリアの花々に囲まれる役場の壁には、「めんそ〜れ」の文字とシーサーたちがパステル色に描かれている。
東京から訪れた私と、那覇に住む写真家の新垣さんのふたりは、ひとまず駐車場に車を止め、思い思いに歩き、湿気を含む夏の空気を吸い込んだ。台風一過、のどかで風が涼しい午後だった。

まもなくして、手慣れた運転で、玉城 毅(たまぐしくつよし)さんが駐車場に現れた。軽くあいさつをしてから、車を先導してもらう。2台の車は瓦屋根の民家の並ぶ小道を何度か曲がり、狭い坂を登り、やがて人が一人ずつ通れるほどの崖沿いの山道が始まる地点で止まった。

入り口には、「百按司墓(むむじゃなばか)」と書かれた道標がぽつんと立っていた。

「足元に気を付けて。」

たまぐしくさんの後ろについて、細い山道を5分ほど歩くと、崖の岩肌に沿う形にこんもりしたお墓が並んでいた。「風葬の習慣がない本土から来た役人が、野蛮だからと石を積み上げ、漆喰で塗り固めてしまった」という家型のお墓が、崖下の海を見つめて並んでいた。

墓前に平御香(ヒラウコー)を焚き、私たちは順に手を合わせる。墓の中に置かれた、朽ちた骨壺(こつつぼ)に自然と目が留まる。

「この百按司墓にはもう、5つの骨壺しかない。全部持って行かれて。」

私たちはその時、たまぐしくさんのご先祖様のお墓参りをしていた、はずだ。けれども、手を合わせた先には一片のご遺骨もないと、たまぐしくさんは静かに告げた。

「神社なら、ご神体がないのと一緒ですよ。」

あるのは空っぽの骨壺だけ。では、かつてここに眠っていた遺骨は今、どこにあるのだろうか。

遺骨の多くは数奇な運命の果て、「沖縄県立埋蔵文化財センター」の倉庫にある、無機質な段ボールに入れられて保管されている。その数、63体。

たまぐしく毅さん。もう3年近く、遺骨返還に精魂を傾ける
▲たまぐしく毅さん。もう3年近く、遺骨返還に精魂を傾ける

盗まれた遺骨

「百按司墓(むむじゃなばか)」は、沖縄県今帰仁村(なきじんそん)の指定文化財だ。

1429年に琉球に初の統一王朝を築いた、第一尚氏(だいいちしょうし)の貴族やその一族の風葬墓と言われていて、現代も続く「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」という聖地巡拝行事の巡礼地でもある。

その百按司墓からいつ、ご先祖の大切な骨はなくなったのか。

時は、戦前に遡る。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけて、京都帝国大学(現・京都大学)の人類学助教授だった金関丈夫(かなせきたけお)氏らが、「琉球人の人骨標本」を作成するため、沖縄県各地から遺骨を採集していた記録が今も残っている。

『琉球民俗誌』(法政大学出版部・1968年発行)には、金関氏が沖縄の研究者の紹介を受け、県や那覇市の許可を得て、人骨を採集したことが記されている。百按司墓もその採集地の一つだ。しかし、子孫や祭祀承継者の承諾を得たという記述はどこにも見られない。代わりに、金関氏の言葉でこうある。

ー今一つの心配があった。それは折角見つけた骨を首尾よく持って帰れるか否かの問題である。

ー聞くところによれば琉球人は厚葬の風があるのみならず、人骨に関してはさまざまな迷信があるとのことだから、ますます心配になった。

祭祀承継者の許可を得ないまま、お墓から遺骨を持ち出すことは、当時も今も違法行為である。

そこに眠っていた遺骨は当時、死後数百年も経っていなかったはずだ。何代か前の先祖のご遺骨は供養の対象であり、埋蔵文化財ではないことは、多くの人にとって疑いようがないことではないだろうか。

しかし、遺骨は持ち去られた。何のために?

百按司墓は、風葬墓。かつての琉球には遺体を埋葬せず、雨風に晒して自然に還す風習があった
▲百按司墓は、風葬墓。かつての琉球には遺体を埋葬せず、雨風に晒して自然に還す風習があった

研究材料

「研究って言えば何してもいい、みたいな。」

仲村涼子さんは、「わじわじー(憤りでふるえる、イライラする)」とウチナーグチ(沖縄島の言葉)をおり混ぜ、私の問いにてきぱきと答えてくれた。藍色のかりゆし姿がさわやかだ。

当時、京都帝国大学医学部の金関助教授と三宅宗悦講師らは、沖縄だけでなく、各地で先住民族の人骨標本を大量に収集していた。「形質人類学」の研究が目的だったと言われている。

「しかも植民地主義につながっているんです。」

今では、彼らの人類学研究は、当時の植民地支配のもとでの優生思想の醸成のために取り組まれていたことが分かっている。

「併合した地域の先住民族の骨を盗っているんですよ。アイヌとか琉球、台湾とかね。」

つまり、先住民族を差別して、日本民族の優秀性を主張。帝国主義を学知で補強するための「研究材料」として、明らかな蔑視のもと、百按司墓(むむじゃなばか)の遺骨は奪われたのだった。

1903年(明治36年)に大阪の博覧会で、琉球やアイヌ、台湾、マレー人などの「生身の人間」の展示を行って非難を浴びた「人類館事件」や、戦時中の帝国陸軍の研究機関「731部隊」とも、思想や関連人物がつながっていると仲村さんは語る。

「帝国大学の教授が盗っていますから。植民地にした台湾で、台北帝国大学(現・国立台湾大学)をつくって、そこでも先住民族の骨を盗ったり。」

百按司墓から人骨を採集した金関氏はその後、台北帝国大学の教授となり、遺骨は研究材料として台湾に運ばれた。

そうして、百按司墓に眠っていた遺骨は、京都と台湾、いずれも無縁の地に留まることになった。

「世界的に、遺骨とか副葬品とか、先住民族が奪われたものを全部あるべき場所に返すように、(流れがもっと)広がってほしいです。」

仲村さんは憤りをたたえた目で、力強く言った。

仲村涼子さん。県議会に働きかけるなど積極的に活動する
▲仲村涼子さん。県議会に働きかけるなど積極的に活動する

再風葬を求めて

現在の科学倫理では否定された研究のために集められた遺骨。それであれば、もう用途はないはずだ。しかし、遺骨は京都大学に26体、台湾大学に63体保管されたまま、再風葬されない。なぜか。

石垣島出身で大学教授の松島泰勝さんは、情報公開を求めて、2017年から京都大学を訪問、質問状や総長宛に要望書を送るなど積極的に働きかけた。しかし「個別の問い合わせには答えない」と対話はかなわず、なぜかは今もわからないままだ。

門が固く閉ざされてしまったために、2018年12月、松島さんを原告団長に、子孫のたまぐしくさんや亀谷さんら5人の原告は、遺骨返還を求めて京都大学を提訴するに至る。大学側は遺骨を何体保管しているか目的を今も明らかにしておらず、「当時必要と考えられる手続きを経た」学術資料だと主張して、全面的な争いがつづいている。

2019年3月には、国際的な返還運動の流れも受けて、国立台湾大学は遺骨を沖縄県に返還する。

けれども、「重要な文化的遺産として、永続的に保存される」との合意書が交わされたために、沖縄県教育委員会は、県立埋蔵文化財センターでの保管を開始する。

2021年1月、「県が違法に入手された遺骨を保管するのはおかしい」と、たまぐしくさんや亀谷さんら住民が、保管費用支出の差し止めなどを求める監査請求を行う。しかし、形式面の不備を理由に県は却下。

半年後、仲村さんも請求人に加わり、二度目の住民監査請求を行うも再び却下。現在、三度目を準備しており、もしも県が応じない場合、請求人がそのまま原告となって訴訟を提起する予定だ。本件で、CALL4を通してサポーターを募っている。

もとのお墓に返してほしい。返せない理由があるなら教えてほしい。対話と返還を求めて、皆さんはあらゆる手を尽くしている。

2021年7月26日、第二回住民監査請求の記者会見を前にした4人
▲2021年7月26日、第二回住民監査請求の記者会見を前に

尊厳を取り戻すたたかい

「沖縄全体で問題にできるような争い方はないかということで、住民監査請求という方法になったんですよ。」

請求代理人の三宅俊司弁護士は、そう説明してくれた。

住民監査請求とは、自分の住む地方公共団体に違法または不当な財務会計上の行為があると考えるとき、監査委員に監査を求められる制度だ。今回であれば、沖縄県民は誰でも請求ができる。

「沖縄の精神文化を守るべきでしょ、というのを柱に、みんなでやっていきたいなと思ってます。」

そう話す三宅さんは、広島出身だ。被爆二世として原爆の問題に取り組もうと弁護士になり、まず原点を学ぼうと沖縄へやってきたのに、米軍基地関連の訴訟を手掛けるうち、「帰れなくなって、ずるずると」もう40年近く沖縄に暮らしているという。今も辺野古への基地移設をめぐる住民訴訟の弁護団を率いる。

三宅さんはおだやかな表情で、「日本の縮図みたいなものですよね。」と、第二の故郷となった沖縄への思いを話してくれた。

「戦前は皇民化教育で日本人にさせられて、戦争が終わったらアメリカに売り渡されて、で、アメリカの反基地闘争が増えてきたら、今度は日本に返して、日本のための米軍基地が出来上がると。常に利用されつづける島ですよね。」

「沖縄がすべての被害と矛盾を抱え込まされたんですよ。」

本請求で県と敵対するつもりはないと言う。ただ、本来であれば沖縄県こそが怒りを持って「返せ」というのが筋だろう、とも話す。

「県だって、持っていても困ると思うんですけどね。ただ置いているだけで。」

三宅さんはそうつぶやいた。

三宅俊司弁護士。1987年の沖縄国体で「日の丸」が焼き捨てられた事件の被告弁護人も務めた
▲三宅俊司弁護士。1987年の沖縄国体で「日の丸」が焼き捨てられた事件の被告弁護人も務めた

骨は神様

「沖縄ではね、三十三回忌を過ぎるまではあの世で修業してから、神様となって、霊魂が骨に宿るって言われていて。」

「骨の神様、骨神(ふにしん)として、とっても大事にされているのに、もうなんかね、もの扱いでしょ。」

そう話すのは、亀谷正子さんだ。戦時中、父と兄を亡くし、防空壕で生まれ、足に大怪我を負った母に育てられたという彼女は幼い頃、祖父から骨神の話を聞いていた。おそらく琉球の伝承が受け継がれた最後の世代だ。

琉球民族にとって遺骨は、「骨神」と呼ばれ、先祖の魂が宿ったもの。それ自体が拝みの対象となる、特別な存在なのだそうだ。

「沖縄の戦後はもう全部消失して、みんな貧しかったんですよ。だから私だけ特別に貧しいというわけじゃなかった。」

「母は裁縫上手だったから、いろんな端切れを集めてね、洋服つくってくれたり。皆さん逆にね、私を金持ちの娘と思ってたみたい。身なりをちゃんとしてたから。」

そうチャーミングに笑う亀谷さんは、今から30年ほど前、失われたルーツを探そうと思い立ち、家系図を手に入れた。その時、自身が琉球の統一王朝を築いた第一尚氏(だいいちしょうし)の子孫だと初めて知ったという。

「でも、はぁ、という感じでね。」

知っても何が変わるわけではなかったと微笑む亀谷さん。では、どうして遺骨の返還を訴えているのだろう。

「生きてる人間もそうだけど、亡くなってからも、そんなふうに、もの扱いされてね。私には、それは耐えられないんですよ。」

「先祖のためにという意識よりも、やっぱり沖縄の人たちのね。生きてる私たちの尊厳回復も含めて、ですね。」

この島の人びとは長く、目に見えるものだけでなく、目には見えない意思までも奪われてきた。

しかも、それは過去形じゃない。今もなお、県民の7割が反対しても、美しい辺野古の海が土砂に沈みゆくのを止めるすべさえ持たないのだから。

「最後まで、頑張りたいと思うんですよ。」

亀谷さんの目に涙がにじんだ。

亀谷正子さん。戦時中、北マリアナ諸島テニアンで生まれた
▲亀谷正子さん。戦時中、北マリアナ諸島テニアンで生まれた

怒りが動かすもの

百按司墓(むむじゃなばか)から戻った私たちは、今帰仁村(なきじんそん)の公民館を借りて、たまぐしくさんの話を聞いていた。

「今、(沖縄県)教育長と話し合っているんですけれど、私が怒ったりしたら、『たまぐしくさんは感情的になるから』って言うんですよ。」

「ふざけるな、こんなことやられてね、感情的にならん人がいるかって。」

もともと琉球花織(はなおり)という織物をしていた、たまぐしくさん。その日に着ていたすてきな風合いのシャツを褒めると、「これ、僕が織ったの。」と教えてくれた。

引退後は趣味の絵を描いて過ごすはずだったんだけど、と苦笑いをして見送ってくれた。

百按司墓に眠っていたのは、たまぐしくさんのおばあさんのおじいさんの、お父さんだったかもしれない。その人も、花織の着物を好んで着ただろうか。きっと美しい海を愛し、この土地を生きた。亡くなってからは、骨神(ふにしん)として村人たちから大切にされてきた。

つながりから引きちぎられ、名もないものになるまでは。

沖縄県立埋蔵文化財センターの保管庫。段ボール1箱に1体分の遺骨が収まる(写真提供:沖縄県教育委員会)
沖縄県立埋蔵文化財センターの保管庫。段ボール1箱に1体分の遺骨が収まる(写真提供:沖縄県教育委員会)

世界には、19世紀以降、先住民族の遺骨や財産を奪い、研究材料や展示物としてきた植民地支配の負の歴史がある。

しかし、1990年にアメリカで「先住民族の墓地保護及び返還法」が成立するなど、欧米諸国では返還の流れは加速している。

また日本でも、アイヌ民族の遺骨返還訴訟があり、北海道大学とは2016年に、東京大学とは2020年に、いずれも再埋葬をする形で和解している。

どれも怒りの声をあげた人と、それを応援する人とが勝ち獲ってきた権利だ。

遺骨は、誰かの“もの”じゃない、のだ。

百按司墓は、崖の向こうに広がる青い空と海を、静かに見下ろす位置にあった。海沿いには小さな漁村があって、かすかに村の人びとの笑い声さえ聞こえてきそうな気配がした。その場に立って私はこう感じたことを、たしかに覚えている。

「ああ、この風景を静かに見つづけることができるなんて、死者が眠るのに、なんてふさわしい場所だろう。ここに暮らす人たちが、神様のために選んだのがわかる。」

あの場所へ、骨を戻してあげたい。

心から願った。そして思うのだ。この島に生きる人たちから奪っているものもすべて、返さなくてはならない、と。

百按司墓の眼下に広がる景色
百按司墓の眼下に広がる景色

取材・文・構成/丸山央里絵(Orie Maruyama)
写真/新垣欣悟(Kingo Arakaki)
編集/杜多真衣(Mai Toda)