都心の真上をゆく飛行機

2020.9.7

羽田空港新ルート設定取り消し訴訟をめぐるストーリー

ゴォという飛行機の音が旅情を伴って聞こえるのは、それが非日常の音だからだ。

昼下がりになると2、3分に一度、その金属音まじりの轟音が降ってきたら、どうだろう。それが日の暮れる午後7時まで、日常の中で絶え間なく続いたら。

子供たちは大声でしゃべりながら下校している。駅を通り過ぎる大人たちは空を見上げる。

飛行機の機体が、銀色の腹をきらめかせて飛んでいる。やけに近く感じる。700mという飛行高度はスカイツリーの高さとそう変わらず、人間の手の届く空だ。

まさか落ちるまいとは思うけれど、もしこれが、1日に数百万人が行き来する新宿に、渋谷に、品川に落ちたら。

2020年3月29日。都心を南北に貫いて川崎まで、地図に新しい「ベルト状の線」が描かれた。国土交通省のホームページで公表されたその新しい線は、東京国際空港(羽田空港)への離着陸の飛行ルートだ。

飛行ルートが変更になったことで、それまでは海の上を飛んでいた離着陸の飛行機が、都心の住宅地や川崎の石油コンビナート、一部荒川の上空を飛ぶようになった。

地図の上ではいく筋かの線が描かれただけだが、いつだって、地図に描かれるのは無機質な記号だけで、「地図の上から人間は確認できない」。

新飛行経路の詳細地図
※国土交通省「羽田空港のこれから」ウェブサイトより

暮らしの平穏を奪う騒音

「すでに、かなり参っています」

地図の下にある人々の生活の変化は激しい。

「3時になると家の真上を飛び始めるから、じっとしていられなくなる。うるさくて、もう思考停止しちゃう」

新しい飛行ルートの直下に住む須永知男さんは言う。空に境界線はなくても、「人の住まない海の上空」を飛んでいたものが「人口の密集する都心の上空」を飛ぶというのは大きな変化だ。

黒田英彰さんも須永さんの近所、ルート直下に住んでいる。「私の家の近くの国交省測定局でも、飛行機が飛んでいるときは、79デシベルという『普通の声では会話が成立しない』値の音が、記録されたくらい。とにかく、うるさいです」と黒田さん。

「川崎ではもっとすさまじい音です。94デシベルという値が出た地区もある。これはもう、会話が不可能な値です」

94デシベルの音は鉄道のガード下と同じくらいの騒音だともいわれる。たしかに、ガード下を誰かと歩いても会話はできない。

「しかも、この測定値が出たのは冬です。夏になると、エンジンの出力を高めるため、より大きくなる」

原告の黒田さん(左)、須永さん(中央)

もっと怖い被害も生じうる

「騒音よりももっと怖い被害も考えられます」と須永さんは言う。
「それは部品の落下や墜落などの事故です」

部品の落下は、飛行ルートが海上だった過去10年でも、24〜25件発生している。

「2018年にも、エンジン部品が落下して、病院の窓に当たったことがあった。エンジン部品は900度から1,500度の高温になる。もしこれが、川崎の石油コンビナートの配管に当たったらどうなるか?」

「コンビナート火災を消火した実績は、日本はおろか世界にも見当たらない、と聞きます。コンビナートの燃料がなくなるまで燃え尽きるしかない。鎮火されるまでの間に、南風に乗った有毒ガスが、東京や首都圏に流されてくるかもしれません…」

もともと川崎石油コンビナートの上空には、危険性を考慮して1970年から飛行制限がかけられていた。それが今回、新ルートを設定するために、東京航空局長は羽田空港の空港長に対して飛行制限をなくすよう「通知」した。

川崎の石油コンビナート上空が安全になったというような新しい事情は明らかになっていない。

渋谷区の上空を飛ぶ飛行機

リスクは適切に想定され、検討されたのか?

「コンビナート上空で事故があった場合の被害想定を調べようと、川崎の防災計画を見たところ、」黒田さんが話を続ける。

「被害の想定や対応策は見当たらないんです。細かい検討もない。さらに川崎には、臨界実験装置のある原子力技術研究所があって、飛行機はその至近も飛びます。実験の施設は廃止が決まったようですが、解体にはまだまだ時間がかかる。その間にもし部品が落下したり機体が墜落したりしたら…?」

「こうしたことも私たちはたびたび住民説明会で質問したんですが、すべてうやむやにされた。回答はいつも、『そういうことがあってはなりませんね』ばかり。

渋谷区では住民説明会は6回開かれましたが、1人1回しか質問もできないし、質疑応答は遮られるし、真摯な回答は一度もありませんでした」

安全違反で訴訟を提起

離陸時の3分と着陸時の8分は、事故が発生しやすくなるために航空業界で「クリティカル11ミニッツ」と言われ、映画「ハドソン川の奇跡」でも描かれている。新ルートが設定された後は、この11分が、それまでの海上飛行から、都心やコンビナート上空の飛行になる。

「2018年にも、羽田の手前8㎞で、事故寸前の出来事があった。国際便のボーイング747が86mまで急降下したというものでした」

「ただでさえ危険なのに、新ルート開始後の運用では、冬場に羽田空港に着陸する飛行機は、通常の飛行角度(3度)を大きく上回る3.45度という角度で飛行することになっています」

航空法では、「航空機の離陸及び着陸の安全を確保した航行」をしなければならないと定められている(83条)。

「新ルート設定はこの規定を無視し、安全違反を引き起こすものです」

都心・川崎のルート下に住む住民たち29人は国に対し、航空法違反であると、ルートの取り消しを求めて訴訟を提起した。同時に、川崎の石油コンビナート上空を飛ぶことを許容した「通知」の取り消しを求めている。訴訟原告団の代表が須永さん、黒田さんが副代表だ。

街頭で活動する須永さん

「大きな」目的の下で地域が犠牲になる構造

こうした危険のある中で新ルートを開く目的は何か?

飛行ルートを管轄する国土交通省は、目的は「国際便増便とそれがもたらす経済効果」だと公表している。

増便による影響について「国際便の便数を年間3.9万回分増やすことで、6,503億円の経済効果、4.7万人の雇用増を見込む」と予測する。

そして、その目的を、「ビジネスを活性化させて首都圏の国際競争力を高めること」「外国人観光客を増やすこと」「日本の地方を元気にすること」、さらに「2020年のオリンピック・パラリンピック大会を円滑に開催すること」であると説明する。

「そこで、増便のためには、新しい滑走路以外にも新しいルートが必要である」と。

観光や国際競争力の強化、「オリンピック・パラリンピックの円滑な開催」。

こうした「大きな」目的のために、暮らしの平穏や安全が奪われ、「我慢を強いられている人たち」がいる。この構造自体は、実は今に始まったことではない。

闘争まで発展した成田空港や、騒音公害訴訟が起った伊丹空港など、空港や空路をめぐる住民と国との争いは長い歴史の中で繰り返されてきた。

そこには、「航空需要や国際競争力という国益」と「地域の暮らし」が対立する構造があり、「我慢を強いられた地域の人たち」が多くいた。

空港建設予定地になった土地を手放さなければならない人がいたし、夜間の離発着で騒音被害を受ける人がいた。我慢した人たちがいて、補償を受けた人がいて、受けられない人がいた。合意形成ができた場合も、できずに終わった場合もあった。

伊丹空港では訴訟を経て今でも、21時〜7時までの離発着は認められていない。

政策目的と地域の暮らしは両立できるのに

今回、羽田新ルートをめぐる訴訟が今までの航空訴訟と少し違うのは、増便をしても新ルートを使わなくとも、「増便の利益」と「地域の暮らし」が両立できる可能性があることだと黒田さんは言う。

「私たちは、増便という政策目的自体は否定していません」と黒田さんは言う。

「私たちが主張しているのは、増便には新ルートを設定する以外にもいろいろな方法がありえるということ。それなのに唯一の方法でもない『新ルート設定』というやり方を強行することに異議申し立てをした、それだけです」

飛行機の便数は羽田滑走路の改造でも増やすことができるという学術論文があり、航空管制の見直しや他空港での吸収などといった代替手段も存在するという。

「両立できる可能性があるのに、両立をあきらめたまま、『地域の暮らし』が無視されているのが問題です」

「それに、都心の上を飛ばすことで増える便は、実は1.1万便だけなんです。これは、現在の離発着回数44.7万回に対して2.5%にも満たない。その2.5%のためだけに政府は危険な新ルートを開いた。本当にそんな必要があったのか?」

「増便はしてもかまわないんです。でも、2.5%の増便という政策目的のごく一部を達成するために、リスクの多い新ルートで飛ばしている。これはあまりにコストパフォーマンスの悪いやり方です」

「同じ空のもと」に住む人たちが集まった

須永さんと黒田さんは渋谷区に住み、訴訟提起の前から新ルート設定の見直しを求める「渋谷の空を守る会」で活動を続けてきた。

「初めは区議会議員のビラで、新ルートが開始されるという話を知った」という須永さんは、「大田区の方と一緒に反対活動を始めるうちに渋谷区の人も加わりました」

「渋谷区の空を守る会」は新ルート見直しを政治に働きかけていたものの、2019年5月の統一地方選挙では、見直しについて芳しい結果が出なかった。

そのときに須永さんが「黒ちゃん、こうなったら裁判やるしかないよね」と、黒田さんに声をかけたという。

「政治に訴えてもうまくいかないから、裁判で争うしかないと思いました」黒田さんが当時を振り返る。

「それが原告団形成の始まり。最初はまわりも、『国と訴訟?なかなか勝てないんじゃない?』とか『お金はどうなの?』などと、反応が良くなかった。

でもそれに対して、自分たちはこう進めていきたいという説明を、2019年の9月10月ごろから行っていき、今は多くの人が集まってくれました」

「分断はさせない」

住民の中で反対派と賛成派の間の争いが起こっていないというのもまた、この訴訟の特徴のひとつだ。須永さんは「住民の間で分断が起こらないよう、地方行政を補助する町会長たちに対して説得を始めたんです」と振り返る。

「今年の1月のこと。渋谷区で町会長105人の集会があった。その会では新飛行ルートの議題は『仕方ないね』で終わったようでしたが、町会長の一人に意見を聞いたところ、『一人ひとり聞いたら反対の人もけっこういると思うよ』という。それじゃあ一人ひとり聞いてみようか、となった」

須永さんは町会長たちを説得し、「都心低空飛行の中止を国に求める要望書」に対して町会長署名を集めようと決意した。

「渋谷区じゅうを、自転車を漕いで一軒一軒回りました」
須永さんは当時のことを話す。

「目の前でドアをピシャッとやられたこともあるし、話を聞いてくれない人もいた。聞いてくれても、趣旨には賛成だが名前を出したくないという人もいた。会えなかった人もいるし、やっぱり大変でした」

奮闘の末に、町会長全105人のうち、過半数の53人が署名に応じた。

「地方行政を補助する立場の町会長の中にも、行政の決定との間で板挟みになって葛藤している人、増便という政策目的に対して新ルートは正しい手段だと言い切れない人はいたんです」と須永さん。

「私たちは、行政の関係者だからといって彼らを敵にしてしまうのではなく、彼らの話も聞き、説得するやり方で行きたいと思った」

これはみんなの話

「これは、一部のルート直下の人だけの問題ではないんですよね。騒音は分かりやすいけど、ほかにも、たとえば都庁のある新宿副都心に突っ込んだらどうか?実害を今受けていないから分からなくても、影響のある人は多いんです」

「墜落事故は、海から着陸して海の上に出る時代にも起こっていた。では事故がもし人口密集地に起こったらどうなるか。それに対する恐怖感が強い人とそうでない人がいるのは確かですが、実は多くの人にとって、自分ごとになる話なんです」

「原告団にも、サポーターとしても、たくさんの人が手を挙げてくれています」と、黒田さんは言う。

「原告団は、様々な地域に住む人が立場やイデオロギーを超えて集まって、同じ空の下でルートの見直しを求めています」

「サポーターの皆さんも、いろいろな形で参加してくれています。航空業界の経験がある人はアドバイザーとして支援してくれているし、街頭での活動で協力してくれている人もいる。」

「資金面での援助をしてくれる人もいるし、今後、裁判に傍聴に来ると言っている人たちもいる。引退世代だけでなく、さまざまな年齢層を巻き込んでやっています」

訴訟を通じて

須永さん・黒田さんと支援者たちの街頭活動を、取材チームが撮影してきた。写真には、長い梅雨が明けた後、暑い夏の恵比寿駅前で声を上げる原告団と支援者の様子が写っていた。

「町はすでに騒音によって変わってしまった。やっぱり許せないという気持ちが大きい」須永さんは言う。

「私は50年間、恵比寿に住んでいて、今の町が気に入っています。人生があと10年か20年か分からないけど、『今までの環境を自分の子どもや孫に残してあげたい』って思うんです」

「もう現に飛び始めてしまった中で、行政処分取り消しの権限を持つ裁判官に対して直接訴えかけたいと思っている」と黒田さんは言う。

「政治の側もこのテーマについて、国土交通省を抑制する役割があるはずなのにそれができていない。だから裁判をするしかない。政治と違って訴訟の場では、裁判官が審判役として判断します。」

「日本はアメリカなどと異なり、今まで一般の人が訴訟でアクションを起こすという文化が薄かったけど、今回の件では裁判という場をきちんと使っていきたいと思います」

今までだって、国が「大きな」目的を達成するために我慢してきた人たちがいた。それに対して声を上げて、その声が届いた人たちもいたし、届かなかった人たちも、声を上げることすらできなかった人たちもいた。

でも、今まで「我慢」があったことが、今我慢を強いられている人たちの我慢を正当化することにはならないし、国の側もこれまでつぶされてきた多くの声から学ぶ必要があるのは確かだ。

「大きな」目的にだけとらわれて、地図を地図としてだけ見て、線を引く。「ルート下に住む人々」を解像度を上げて見ない。

こうしたやり方が常態化すると、「ほかの手段もある中で不合理にルートを設定する」といった今回のような運用が起こる。

この訴訟は、「それで良いのか」と問いかける訴訟だ。

もっと解像度を上げるべきなのではないかという問題提起だ。

見上げる飛行機が近くなってしまった住民たちからの、「空の上からも人間を確認してくれ」という要求だ。

取材・文/原口侑子(Yuko Haraguchi)
撮影/神宮巨樹(Ooki Jingu)
編集/杜多真衣(Mai Toda)